東京ラビリンス

Andante - 第4話 無意識下の本音

「おまえ、日比野の娘とはどうなっておるのだ」
 悠人は橘剛三の書斎でスケジュール調整をしたあと、出し抜けにそう尋ねられた。
 日比野涼風と会うので時間をいただきたいと、彼には都度正直に告げているので、ほぼ二週間ごとに会っていることは知られている。関係を邪推されるのも無理からぬことかもしれない。
「彼女は友人です」
 ためらわずにそう答えることができたのは、彼女がこの関係に名前をつけてくれたからだ。それがなければ、ただ曖昧に言葉を濁すしかなかっただろう。友人になりたいと勇気を出して言ってくれた彼女に、このとき初めて感謝した。
 しかし剛三は執務机で手を組み合わせたまま、フンと鼻先で笑った。
「……おかしいですか」
「おまえに大地以外の友人がいたとはな。それも女とは」
「彼女に友人になりたいと言われたので了承したまでです」
 そんな言い訳めいたことを口にしたのは、思わぬことを指摘されて少なからず動揺したからだろう。確かに、中学生のころからずっと大地以外に友人はいなかった。彼だけでいいと思っていた。なのに、なりゆきとはいえそこに涼風が加わってしまうとは。
 剛三は何もかも見透かすような目でじっと見つめる。
「おまえは好きでもない相手を決して友人などと呼ばんし、食事に出かけたりもしない。気のない相手にどれほど冷淡な態度をとるか知っておる。たとえ誘われたとしてもほいほいついていかんだろう。相手が女であればなおさらだ」
「……何が言いたいのでしょう」
「思ったことを言ったまでだ」
 悠人は思いきり眉をひそめて表情をけわしくしたが、剛三はしれっと受け流した。彼がとぼけるのならば自分もとぼけるまでだ。さきほどの話はなかったことにしてしまおうと心に決める。
「今夜、彼女と食事の約束があります」
「楽しんでこい。朝まででも構わんぞ」
「今日のうちには帰ります」
 いまいましく思いながらも努めて冷静にそう答え、一礼して書斎をあとにした。
 どうやら剛三が面白がっていることは間違いない。悪気があるわけではなく、単に下世話な興味を持っているだけだろう。もしかしたらお節介のつもりなのかもしれない。彼の考えるようなことは何もないのに——悠人は奥歯をかみしめ、自室のドアノブに手を掛けて静かにまわし開けた。

「お待たせしました!」
 夜の帷が降りかかった駅前で待つ悠人のもとに、涼風は息をきらせて駆けつけてきた。
「すみません、打ち合わせが長引いてしまって」
「約束の時間ちょうどだよ」
 悠人はくすりと笑いながら腕時計を掲げてみせた。
 涼風はたいてい悠人よりも先に来ている。悠人がいつも待ち合わせ時間の十分前に来ているので、それより早く着くようにしているのだろう。まれに悠人より遅くなることはあるが、今回のように仕事が長引いたときだけだ。
「今日はどこに?」
「しゃぶしゃぶのお店よ。そろそろ鍋の季節じゃないかと思って」
 涼風はそう言ってニコッと微笑む。
 秋も深まり、そろそろ冬のコートが必要になろうかという時季になっていた。鍋などいつ以来だろうかと考えてしまうくらい久々で、もちろん涼風と食べるのは初めてだ。そうだな、と何気ない調子をよそおいながらも、その口もとは自然とほころんでいた。

 涼風は友人になってからもあまり変わらなかった。むしろ控えめになったくらいである。
 以前よりも親しくなっているような気はするが、男女の友人としての線はきっちりと引いているのだ。悠人のことが好きだとは口にしなくなったし、色仕掛けで迫ってくるようなこともないし、性的な関係にかかわることは冗談でも言わなくなった。互いの家の前まで行っても部屋に上がることはない。
 だからこそ、悠人も気を許せるようになってきたのだろう。
 彼女といると素直に楽しいと思えるし、安心もできる。おかげで口調もだいぶ砕けてきた自覚がある。下の名前で呼ぶことにも抵抗がなくなっていた。もう名実ともに友人といってもいいだろう。だが、あくまでもそれだけの関係だ。剛三の望むようなことには決してならないし、なるべきではない——。
 かすかに覚えた違和感を、悠人は意識の奥底に沈めて歩き続けた。

「おいしかったですね」
「ああ」
 食事を終えて外に出ると、すっかり闇夜に包まれて冷え込みが厳しくなっていた。凍てつきそうな北風がふいに頬をかすめて熱を奪っていく。しかし、鍋であたたまった体はそれほど簡単に冷えはしない。となりに並んだ涼風の頬もまだ火照っているように見えた。
 悠人はすこし考えてから言葉を継ぐ。
「涼風、今日は飲みたい気分なんだ。もうすこし付き合ってほしい」
「もちろんよ。さっきは何も飲みませんでしたものね」
 さきほどはしゃぶしゃぶを堪能するために、あえてアルコールを頼まなかった。
 しかし、悠人の飲みたい気分はおそらくそれとは関係なく、剛三の無遠慮な追及が胸にわだかまっているせいだろう。もちろんそんなことを彼女に話すつもりはないし、話せるはずもない。ただ、もうすこしそばにいて付き合ってくれさえすればいい——そんな身勝手なことを思いながら、以前、彼女と訪れたことのあるバーへと足を向けた。

「…………?!」
 ぼんやりと目が覚め、あわてて周囲を見まわしひどく混乱する。
 悠人が横たわっていたのは自室のベッドの上だった。ジャケットの前はだらしなくはだけており、ネクタイは緩められ、シャツのボタンも三つほど外されている。布団はかぶっていなかったが、部屋には暖房がはいっているため十分にあたたかい。
 目につく範囲では悠人のほかに誰もいないようだ。もちろん涼風も——そのことに体中の力が抜けるほど安堵し、同時にうっすらと記憶がよみがえってきた。

 飲みたい気分というより、酔いたい気分だったのかもしれない。
 涼風とともにバーに入り、そこで結構なハイペースでウィスキーやバーボンをあおった。普段は飲まないもののアルコールにはわりと強い方で、ちびちび飲んでいたのではあまり酔えないのだ。おかげで望みどおり酔いがまわったが、まさか記憶が飛ぶなどとは思いもしなかった。
 酔っても顔が赤くならない体質のため、一緒にいた涼風もなかなか異変に気付けなかったのだろう。特に止められたり注意されたりはしなかったように思う。いささか饒舌になった悠人の話に夢中だったせいかもしれない。しかしながら内容についてはほとんど覚えていない。どうやってここまで帰ってきたのかもまるで記憶にない。泥酔しながらも自分で帰ってきたのだろうか。あるいは、涼風に迷惑をかけてしまったのだろうか——。

 腕時計に目を向けると、午前一時になろうかというところだった。
 今から涼風に電話をするのはさすがに気が引ける。ジャケットの内ポケットに入っている携帯電話を意識しながら、泥のように重たい体を起こして立ち上がり、無造作に前髪をかき上げて気怠い吐息を落とす。
 ふと、机に置かれたミネラルウォーターのペットボトルが目についた。中身はすこし減っている。もともと冷蔵庫に入れてあったものだと思うが、帰ってきてから自分で開けて飲んだのだろうか。思い出せない記憶をしかめ面でたどりながら、ペットボトルの水を渇いた喉に流し込む。まださほどぬるくなっていなかった。
 ブルブルブル——。
 ジャケットの内ポケットで携帯電話が震えだしてビクリとした。キャップを開けたままペットボトルを机に戻し、携帯電話を確認すると、ディスプレイには涼風の名前が表示されていた。全身から冷や汗がふきだすのを感じつつ、通話ボタンを押す。
「……はい」
『悠人さん? 起きてたの?』
 すこし驚いたような涼風の声が鼓膜をゆらした。悠人は緊張したまま答える。
「さっき目が覚めたところだ」
『それなら良かったです。こんな時間に電話なんて非常識だとは思ったんですけど、心配だから留守電にメッセージだけでも入れておこうと思ったの。でも、大丈夫そうな感じなので安心しました』
 その声に安堵がにじむ。怒っているということはなさそうだが、それは彼女が寛大なだけかもしれない。
「すまない……実は、あまり記憶がなくて……」
『ごめんなさい、まさか悠人さんが酔うなんて思わなくて』
「いや、君は悪くない……僕はどのくらい迷惑をかけた?」
『そんなには。話しているうちにうつらうつらしてきたので、タクシーでご自宅まで送り届けただけです。そこからは執事の方と遥くんにお願いしました』
「そうか……」
 涼風は何でもないかのように言うが、酔って正体をなくした悠人をタクシーに乗せるだけでも大変だっただろう。体格に差があるのでなおさらだ。執事の櫻井と遥にも迷惑をかけたようなので、あとで彼らにも詫びなければならない。
「すまなかった。この埋め合わせはするよ」
『気にしないで。貴重な話も聞けましたし』
「……貴重な話?」
『えっ、もしかしてそれも覚えてません?』
「ああ……何の話か教えてくれないか」
 何となく嫌な予感がするが、だからこそなおさら気になって仕方がなかった。杞憂であればそれでいい。だがここで聞かなければきっと後悔するだろう。じっと息を詰めて返答を待っていると、電話の向こうで彼女のためらう気配がした。
『その、言いにくいんですけども』
「気遣いはいいから言ってほしい」
『ん……誤解しないでくださいね。私が聞き出したわけじゃなくて、悠人さん自ら語り始めたんです。酔っていたからだと思いますけど、すこし自嘲ぎみに……過去の恋愛の話を……』
 一瞬で酔いが醒めた気がした。血の気がひいて背筋に冷たいものが走る。
「それは……どんな……?」
『えっと、悠人さんが好きになった人のこととか』
「君は、それが誰なのかもうわかっているのか?」
『……ええ、みんな橘の方だったのね』
 決定的だった。
 澪のことだけは隠していなかったが、それ以前のことはずっと胸に秘めてきたのに、どうして軽々しく涼風に話してしまったのだろう。酔っていたとはいえ信じがたいことである。先日、ドイツにいる大地にだけはすべてを打ち明けたが、とっくに見透かされているとわかっていたからできたのだ。
 最初に好きになったのが男性で、次に好きになったのが彼の婚約者で、その次に好きになったのは二人の娘——しかも自分が保護者同然に面倒を見てきた子だ。客観的にみれば、頭がおかしいと思われても仕方がない。気持ち悪いといわれても反論の余地はない。携帯電話を持つ手に力がこもる。
「引いただろう」
『すこしも驚かなかったといえば嘘になるけど、引いてはいないわ』
「…………」
『また食事に行きましょう。悠人さんさえ嫌じゃなければ、飲みにも』
 何も気負ったところのない、普段どおりの声が電話を通して伝わってくる。
 それでも素直に受け取っていいものかどうかわからない。口では何とでも言える。すこしでも蔑む気持ちがあればいつか掌返しをされるだろう——そんな捻くれたことを考えながらも、こころは不思議と凪いだ海のように穏やかになっていた。それを自覚すると胸がじわりとあたたかくなる。
「涼風……その、ありがとう」
『どういたしまして』
 彼女はくすっと笑って応じた。電話なのでもちろん声しか聞こえないが、そのときの彼女の表情が目に浮かぶかのようだった。

 おやすみと言い合って電話を切ったあと、悠人はベッドに腰を下ろしてそのまま後ろに倒れ込んだ。固めのスプリングで体が揺れるのを感じつつ、なじみのある天井を見つめて吐息を落とし、目を閉じる。
 会いたい——。
 自然と湧き上がったその気持ちを胸にいだきながら、悠人は再び眠りに落ちていった。