東京ラビリンス

Andante - 第5話 脆い土台の上に

「涼風……」
 悠人は熱をおびた声を落とし、ベッドに仰向けになった彼女の横に手をついて真上から覗きこむ。薄暗い部屋の中で、その潤んだ漆黒の瞳は窓からの月明かりを受けてきらりと輝き、可憐な薔薇色のくちびるは物言いたげに半開きになっている。
 大きく骨張った手ですべらかな頬を包み、親指でやわらかいくちびるをなぞると、彼女の体がぴくりと震えた。その様子を目にしてふっと笑みをこぼす。
 緊張をほぐすように、頬、額、耳、首筋などに軽く口づけを落としながら、白いバスローブの上から体のラインをなぞるように手を這わしていく。そして体の力が抜けてきたのを感じると、誘うように薄く開かれたくちびるに舌を割り込ませ、夢中でむさぼるように絡ませ合った。
 口づけを解くと、二人のあいだに透明な糸が伸びて切れた。
 ほんのりと頬が上気したしどけない涼風と目を合わせたまま、ゆっくりと体を起こし、バスローブの帯を解いてそっと合わせ目を割りひらいた。雪のように白くなめらかな肌、やわらかそうな豊満な胸があらわになる。彼女はますます顔を赤くほてらせながら、恥ずかしそうに横を向いた。
「……あっ……ぁ」
 手に余るほどの乳房を優しく揉みこみつつ、ささやかに色づいた先端に指で刺激を与える。小さなくちびるからこぼれるかぼそい声を聞きながら、もう片方の先端を口に含んでねぶり、やわらかな素肌を楽しむように空いた手をすべらせていく。合わせられた内股に指先がかかると彼女の腰がびくりと揺れた。
 快感と羞恥の入りまじった表情に、ますます煽られる。
 もっと、もっと乱れろ——。
 さきほどよりも幾分か荒々しく胸を揉みしだき、内股に中指を置いたまま、首や胸元にくちびるを這わせて幾度かきつく吸い上げる。赤く浮かび上がった痕に満足すると、今度は時間をかけて焦らすように体中をなぶっていく。秘められた場所もすべて——甘い啼き声を上げて白い体をくねらせる彼女の姿に、さらに興奮が高まっていった。
「ゆう、と、さん……」
 涼風は涙をにじませながら、期待と不安のないまぜになった目で見つめてきた。彼女が何を望んでいるのかはわかっている。悠人は自分のバスローブを素早く脱ぎすてると、彼女の膝裏に手をかけて押し上げながら左右に開き、そして——。

 ジリリリリリリリ——。
 聞きなれた目覚まし時計の音で、現実に引き戻された。
 叩きつけるようにボタンを押してけたたましい音を止めると、溜息をつきながら体を起こした。ベッドに座りこんだまま無造作に前髪をかき上げてうつむく。
 またか——。
 この類の夢を見るのは三度目だ。
 大人になった涼風と再会して間もないころ、酔った彼女を介抱するときに裸を見たことがあるので、無駄に妄想がはかどっている気がする。もっともその当時は彼女にまったく興味がなかったため、きれいな体をしているなと冷静に思っただけで、劣情が刺激されるなどということは一切なかった。
 こんな夢を見てしまったことに、最初は予想もしなかったので愕然としたものの、今はもう好きなのだから仕方がないと開き直っている。たかが夢や妄想で罪悪感を覚えるほど清純な人間ではない。過去にはまだ幼い美咲や澪を何度も脳内で犯してきたのだ。それに比べれば成年女性なのだからよほどましだといえる。
 これが、涼風が紳士と評した男の正体である。
 とても彼女に好きになってもらえるような人間ではない。そのことに胸の痛みを覚えるのは、彼女のことを友人として以上に好きになってしまったからだ。それを自覚したのは酔って記憶をなくしたあのときだが、実際いつから好きになっていたのかはよくわからない。いや、いつからとはっきり言えるものではないだろう。
 涼風の一途な告白をさんざん拒絶しておきながら、今さら何だと自分でも思う。
 もしかすると、彼女の方はもうただの友人としか思っていないのかもしれない。彼女が好きになったのは幼い日の記憶がつくりあげた幻影である。仮面をかぶっていない現実の悠人と何度も会い、みっともない部分も知ったのだから、幻影などとっくに消え失せていても不思議ではない。そう考えれば一線を引いた態度にも合点がいく。
 だが、少なくとも友人としてはまだ愛想を尽かされていないはずだ。それなら友人のままでいい。彼女に想いを告げさえしなければ、下手な希望を持ちさえしなければ、いつまでもこの関係を続けていられるのだから。

「おまえ、今日は日比野の娘と約束があるんだったな」
 今夜、剛三が旧知の財界人を集めて会食をすることになったが、それが決まったとき悠人には涼風との先約があった。もちろん事前に剛三の許可はとってあり、秘書はほかにもいるので問題ない。それでも剛三につきそうのは基本的に悠人の役目なので、申し訳なくは思っている。
「ご迷惑をおかけします」
「迷惑などと思っておらんよ」
 剛三は執務机で書類に目を落としたまま軽く返事をすると、正面に立つ悠人を見上げて言葉を継ぐ。
「あの娘とはまだ『友人』なのか?」
「……友人です。これからもずっと」
 悠人は感情を抑え、抑揚のない声でそう答えた。
 しかし、剛三に無言で探るように瞳の奥を見つめられると、すべてを見透されてしまいそうな恐怖心がわきあがる。得意なはずのポーカーフェイスを保てているのか自信がない。耐えきれず、小さく一礼して逃げるように会長室をあとにした。

 夜になり、職場からほど近い待ち合わせ場所の駅に向かう。
 二週間は長い——涼風への想いを自覚してからそう感じるようになった。だが、急に頻繁に誘うようになったら彼女に怪しまれてしまうだろう。だからこのペースを崩すわけにはいかない。あくまで何もかも今までどおりでなければならないのだ。
 大勢の人が行き交う改札の方へ足を進めながら、涼風の姿を探す。すぐに柱を背にしている彼女が遠目に見えた。今日は仕事帰りでないらしく、ダブルボタンの白いコートに黒のブーツ、手にはハンドバッグという出で立ちだ。そして、どういうわけかスーツを着た同年代くらいの男性と談笑していた。
 誰だ——?
 悠人は思わずその場に足を止め、眉をひそめた。
 いわゆるナンパにしては互いに気安すぎる雰囲気である。知り合いなのだろうか。背丈は悠人より低いものの成人男性の平均くらいはありそうだ。短髪で清潔感のある身なりをしており、笑顔もチャラチャラした感じではなくさわやかで、男性からも女性からも好かれそうな好青年に見えた。陰気な悠人とは真逆といってもいい。
「悠人さん!」
 涼風がふとこちらに気付いて大きく手を振ってきた。悠人は止まっていた足を進める。その間に、涼風と男性は再び親しげに言葉を交わしていた。「じゃあ、またな」「うん」——彼はにこやかに軽く手をあげて改札へ向かい、人混みに飲まれていった。
 悠人は彼の消えた方を目で追いながら尋ねる。
「……誰?」
「高校のときの同級生で……その、元カレです。卒業してから一度も連絡をとってなかったのに、こんなところでばったり会ってびっくりしちゃった。この近くの商社に勤めているんですって」
 涼風は気恥ずかしそうに頬を染めてそう答え、肩をすくめる。
 元カレ——この駅を待ち合わせ場所に選んだ自分を呪いたくなった。元カレというからには別れているのだろうが、彼女を見るとまんざらでもないように見えるし、彼の方もとても楽しそうに笑顔で話をしていた。
「どうして別れたのか、聞いても?」
「えっ、別にこれといって理由は……受験に専念したいってのもありましたし……」
 涼風は曖昧に目を泳がせながら、歯切れ悪く答える。
 つまり、互いに嫌いになって別れたわけではないということだ。久々の再会で焼けぼっくいに火がつくというのは、そうめずらしい話でもない。もしかするとすでに——彼が「またな」と言っていたことから考えると、会う約束をしたことは間違いないだろう。
 行くな、などと言えるはずがない。自分はただの友人なのだから。
 二人がしゃべっているところは似合いの恋人どうしに見えた。ともに聡明でさわやかな美男美女といった印象で、二人の間には親しげな雰囲気が流れている。同級生なので年齢的にも釣り合っている。ひとまわり以上も年の離れた自分とは違って——。
「悠人さん、行きましょう?」
「ああ」
 沈鬱な思考にひたっていたところで彼女に声をかけられて我にかえる。足を進めようとしたそのとき、彼女の白いコートが一部うっすらと黒くなっているのを見つけた。寄りかかっていた柱のせいかもしれない。
「涼風、肩のところが少し汚れてる」
「えっ、どこ??」
 彼女はきょろきょろして探すが、背中側なので自分で簡単に見える場所ではない。悠人が何度か軽くはたくと、目を凝らして見ないとわからないくらいにはなった。
「落ちたよ」
「ありがとう」
 彼女が屈託のない笑みを浮かべると、悠人はその肩に手を添えて目的の駅ビルへと歩き出す。
 もちろん手を繋ぐことも腕を組むこともない。こんなに近くにいても、理由がなければ触れることさえかなわない。それが悠人と涼風の距離である。そして、それを最初に望んだのは他ならぬ悠人自身だった。後悔がないとはいえないが、このままの関係を続けられるならそれで構わないと思っていた。
 だが、もし涼風と彼が付き合うようになったら——。
 彼女との友人関係は解消しなければならなくなる。こんなふうに一緒に出かけることもできなくなる。そういう約束だった。ふたりの関係はとても脆い土台の上に成り立っているのだ。そんなことも忘れ、永遠に続けられるとあたりまえのように考えていたなんて。
 悠人はいつもどおりの冷静な顔で歩きながら、ひそかに奥歯をかみしめた。