「なにこれすごい、ホテルじゃないみたい!」
涼風はリビングに入るなりぐるりと見まわしながら感嘆の声を上げた。そして小走りでベッドルームやバスルームを覗きに行き、「すごい」「広い」「きれい」などと子供のようにはしゃいでいる。
その反応を離れたところから眺めながら、悠人はくすっと微笑んだ。
ここは、レストランのあったホテルのスイートルームである。
涼風は微笑ましいくらい素直に感動しているが、最高級の部類ではなく、スイートルームとしてはごく一般的なものだ。リビング、ベッドルーム、バスルームで構成されており、いずれもゆったりとした空間に、質の良さそうな設備が配置してある。贅沢といえば贅沢だが、VIP向けの部屋ほど豪奢に飾り立てられてはいない。
本当は、ここまで連れてくるつもりはなかった。
レストランで想いを告げたあと、実は剛三のお膳立てだったことを正直に話し、彼からもらったメモを涼風に見せた。どういう反応を示されるのか不安だったが、彼女は目を丸くしたあとクスクスと笑って言った。会長さんに大事にされていますね、と——。
しかし、その紙にスイートルームを予約した旨が書いてあることを失念していた。
涼風にここに泊まるのかと訊かれて頭が真っ白になった。君はどうしたい? と尋ね返したら、スイートルームなんて行ったことがないから見てみたい、せっかくなので泊まりましょう、と無邪気に返されてそうせざるを得なくなったのだ。
悠人としては目的を果たしてもう終わった気になっていた。彼女の返事がどうあれレストランまでのつもりだった。いくらなんでもいきなりホテルに誘うなど性急すぎる——という考えは古くさいのだろうか。
決して嫌なわけではない。何度となく夢に見るくらい渇望していたのだから、涼風にその気があるのなら断る理由はない。ただ、彼女がどう考えているのか今ひとつ判然としないのだ。もしかすると、本当にただスイートルームを見たかっただけなのかもしれない。彼女のはしゃいだ様子を見ているとそんな気がしてくる。
それならそれで構わない。待つことには慣れている。
いずれにせよ、彼女の気持ちを確かめないことには始まらない。そしてそれが一番の難関である。こんなことを単刀直入に切り出す勇気はないし、不自然にならず遠回しに尋ねる技量もない。いったいどうすればいいのだろうか——。
「こんな日が来るなんて、思わなかった」
涼風はひとしきりスイートルームを見てまわったあと、窓からの夜景を眺めながらガラスに手を置き、ぽつりとつぶやいた。
「とっくにあきらめていたもの。私が好意を口にしても迷惑がられてばかりだったし……だから、悠人さんに拒絶されないようにするには、もうこの気持ちを封印するしかないなって。友人としてでもいいから一緒にいたかったの。なのに、まさか悠人さんの恋人にしてもらえるなんて……」
硬い面持ちで振り返り、都心のきらびやかな夜景を背にして悠人を見つめる。
「本当に信じていいのよね?」
「信じてくれないと困る」
悠人は真顔でそう答えた。いまだ不安そうにしている彼女のもとへ足を進めて、間近で見つめ合うと、小柄な体を懐に引き込んで優しく抱きしめる。彼女がそっと身を預けてくるのがわかって頬がゆるんだ。そのやわらかな感触とぬくもりに、まぎれもない現実であることを実感する。
もぞ、と涼風が身じろぎをして顔を上げた。すこし頬の染まったほわりとした表情を見て、誘われるようにくちびるを重ねる。驚くほどやわらかくて甘い。脳天まで痺れが走るのを感じた。夢中になり、角度を変えながら次第に口づけを深くしていく。しかし——。
意外と、慣れていない?
嫌がっているわけではないと思うが、どうも反応がぎこちないような気がする。体もすこしこわばっている。行為に慣れていないのではなく、緊張しているせいかもしれない。そっと口づけを解いて見つめると、彼女はみるみるうちに顔を真っ赤にして目を泳がせた。
「あの、先にシャワーを使っても?」
「ああ……」
涼風はハンドバッグを手にとり、赤面して下を向いたままパタパタと小走りで駆けていく。
さきほど悩んでいたのが嘘のような急展開である。もしや自分の行為で焦らせてしまったのだろうか——悠人はふいと眉を寄せると、涼風、と遠ざかる背中に向かって声をかける。リビングを出ようとしていた彼女はびくりと足を止め、振り向いた。
「無理しなくていい。心の準備ができていないのなら何もしない」
「無理なんてしていないわ。すこしドキドキしているだけ」
涼風は胸元に手をあててぎこちない微笑を浮かべると、今度は落ち着いた足取りでリビングをあとにする。すぐに、パタンと静かに扉の閉まる音が聞こえてきた。
悠人は一人掛けの白いソファに腰を下ろし、背もたれに身を預けて息をついた。
緊張しているのは悠人も同じである。もしかすると涼風より緊張しているかもしれない。なにせこういったことは二十数年ぶりなのだ。おまけに経験人数もひとりだけである。回数だけは無駄にこなしているものの、いつも自分本位であまり相手を思いやった覚えはない。
おそらく涼風の方が経験豊富なのではないかと思う。実際、高校生のときに恋人がいたことはわかっている。彼女さえその気になればいくらでも作れただろう。それを咎める気持ちはない。ただ、自分が下手をして幻滅されるのが怖いのだ。
今さらどうにもならないことに考えをめぐらせていると、ますます緊張して鼓動が速くなってきた。ネクタイをゆるめ、ゆっくりと呼吸をし、嵌め殺しのガラス窓に目を向けて夜景を眺める。それでも一向に鼓動は鎮まらなかった。
「悠人さん」
ソファに座ったまま身じろぎもせず待っていると、涼風がちらりと遠慮がちに顔を覗かせた。体は隠れてほとんど見えないが、ホテルの白いバスローブを身につけているようだ。ほんのりと顔が上気しているのは、湯につかったからだろうか。
「寝室で待ってますね」
「ああ……」
薄明かりのついたベッドルームに彼女がそそくさと戻ったあと、悠人は肘掛けに手をついて立ち上がる。そして、ベッドに腰掛けてうつむいた後ろ姿を横目で見ながら、無言でベッドルームを抜けてバスルームへと足を進めた。
あまり待たせないよう素早くシャワーを浴び、白いバスローブを身につけた。
緊張と期待と不安と興奮がないまぜになり濁流のようになっている。それでも平静をよそおうしかない。何度か大きく深呼吸をしてから、いつもの無感情な顔をとりつくろいバスルームを出る。しかし——。
「…………?!」
そこにあったあまりにもわけのわからない光景に、一瞬で仮面が崩れ去った。
バスローブを着た涼風が、なぜか悠人に向かって土下座をしていたのである。唖然として声もなくその場に凍りつく。彼女にこんなことをされる心当たりはない。悠人がシャワーを浴びているほんの数分のあいだに、いったい何があったというのだろうか。
「黙っておこうかと思ってたんですけど、すこし怖くなって」
「えっ?」
額を絨毯につけたままおずおずと切り出された言葉も、やはり要領を得ない。もやもやしながら彼女を見下ろしていると、伏せた姿勢のまま顔だけがすこし上がった。ちらりと悠人を窺い見たあと、硬い面持ちでうつむきぎみに視線をそらして言葉を継ぐ。
「私、実はそういった経験がなくて……その、は……初めてなんです……」
「……え、それは男性経験ということ?」
思わず聞き返すと、涼風は姿勢を崩さず頷いた。悠人はますます混乱する。
「君には彼氏がいたんじゃなかったのか? あの元カレは?」
「彼とは……その、途中まで……?」
途中? 途中ってなんだ?!
胸の内で盛大に突っ込む。いったいどういう状況なのか気になって仕方ないが、詳しく訊くわけにもいかない。今はそこに興味を示している場合ではないのだ。どうにか理性を総動員して冷静になろうとする。そのあいだにも彼女の話は淡々と続けられた。
「その後も何人かお付き合いしたひとはいましたけど、そこまで至らなかったというか、許さなかったというか……だからあまり長続きしたことがなくて……私、身持ちが堅いって言いましたよね?」
涼風は顔を上げ、上目遣いで小首を傾げる。
確かに再会してまもない頃にそんな話をしていた記憶はある。だが、付き合ってもいない相手と寝ないという意味だと思っていた。失礼かもしれないがそんなに堅いタイプには見えなかった。そう思われても仕方のない言動を彼女はしていたのだ。はぁ、と大きく溜息を落としてうなだれつつ額を押さえる。
「君は、処女なのに一晩だけなんて言っていたのか」
「そ、それは酔っていたし……悠人さんだから……」
涼風は顔を赤らめ、消え入りそうに口ごもりながら言い訳する。
ほかの人にはさすがに一晩だけなどとは言わなかったのだろうが、意識的にせよ無意識にせよ、思わせぶりな態度をとってきたのではないかと想像はつく。実際、仕事関係の相手にそういう態度をとることもあると彼女自身が口にしていた。男というものを甘く見ているのかもしれない。それでよく今まで無事だったものだと思う。
「わかった」
とりあえず説教は後回しにしてそう言うと、彼女の前にしゃがんで目を合わせる。
「さっきも言ったが無理強いするつもりはない。今日は何もしないから」
正直、残念だという気持ちはある。なにせ好きな女が湯上がりバスローブ姿で目の前にいるのだ。前傾姿勢で強調されたやわらかそうな胸も、おどおどした不安そうな上目遣いも、半開きになった可憐なくちびるも、これでもかというくらい悠人を煽り立てる。しかし、今は彼女を安心させることだけを考えなければならない。土下座をするほど怖じ気づいているのだから——。
「そうじゃなくて!」
「…………?」
焦ったように声を上げた涼風に驚き、目を瞬かせる。
彼女は身をすくめておずおずと言葉を継いだ。
「えっと、その、やめてもらいたかったわけじゃなくて……ご面倒をおかけしますがよろしくお願いします、って……」
脳天まで何かが突き抜けたように感じた。
無言で涼風を横抱きにしてキングサイズのベッドに向かい、その中央に下ろすと、体を起こそうとする彼女の両肩を押さえつける。抵抗はなかった。真上からまっすぐにその双眸を見つめると、彼女は目を潤ませ、ぶわっと火を噴きそうなほど顔を真っ赤にした。
「はっ、恥を忍んで告白したんですから……優しくしてくださいね?」
おびえた仔ウサギのように瞳をうるうるさせながら頼んでも、逆効果でしかない。もちろん彼女はつゆほどもわかっていないのだろうが。
「善処するつもりだが、自信はない」
「そんなっ……!」
君は知らないだろう。僕がどれほど昂ぶっているかなど——。
うろたえる彼女を見て口もとが上がる。多分、思いのほか嬉しかったのだ。涼風がまだ誰のものでもなかったことが、そして自分だけのものにできることが。もう彼女を逃がすつもりは微塵もない。すぐにでも貪りたい衝動に駆られる。それでも初めての彼女を怖がらせたくない一心で、かろうじて理性をつなぎ止めていた。
そっと頭をなでる。
くせのない黒髪は、ひんやりとして絹のようになめらかな手触りだ。対照的に頬はほんのりとあたたかくてやわらかい。ふっと表情をゆるめると、ゆっくりと覆いかぶさるように顔を近づけ、目を閉じた彼女にくちびるを重ねる。そして——。
夢なんかより、現実の方がはるかに良かった。
ベッドに座る悠人は、隣で眠る涼風を見下ろして目を細め、指の背でかすめるように頬をなでる。そのかすかな刺激に彼女は身じろぎし、まぶたを震わせながら目を開いていく。
「……ゆ……と、さん?」
「おはよう」
「……お、はよう……ございます」
まだ夢うつつの様子でそう応じると、もぞもぞと首をめぐらせてデジタル時計を確認する。まだ六時過ぎだということに安堵したのかほっと小さく息をついた。少し乱れたバスローブから白いうなじが覗いている。
「体は大丈夫?」
「ええ、まあ……何か体中がギシギシしますけど……」
「運動不足だな。普段から柔軟くらいはした方がいい」
冷静にそう指摘すると、涼風は横になったまま恨めしげに悠人を見上げ、上掛けを顔半分あたりまで引き上げた。そのかわいらしさに思わず笑みがこぼれる。
「ひとりで支度できそう?」
「大丈夫です」
「なら、朝食のあと出かけよう」
朝食はルームサービスを頼むつもりである。せっかく涼風が楽しみにしていたスイートルームなのだから、寝るだけでなくもうすこし堪能させてやりたい。彼女の体のことを考えてもその方がいいだろう。
「出かけるって、どこへ?」
涼風はもぞりと顔を出して尋ねる。
「指輪を買いに」
「えっ?」
「結婚しよう」
「はい?」
「結婚しよう」
二度言っても信じられないのか、彼女はこぼれんばかりに目を見開いて唖然とした。もちろん悠人としては大真面目である。唐突だったので驚くのは無理ないかもしれないが、信じてもらうしかない。
「……あの、早すぎません?」
「随分、待たせたと思ったが」
「そ、れは……」
すこし意地悪くとぼけたように言い返すと、涼風は答えに詰まる。
本当はわかっていないわけではなかった。涼風は昔からずっと好きでいてくれたし、友人としては半年ほど付き合いがあるが、恋人としての付き合いはきのうからである。まだ一日も経っていない。一般的な基準で考えれば、さすがに早すぎるだろうという自覚はある。
「戸惑う気持ちはわかるけど、僕は本気だから」
「もしかして、責任をとろうとか思ってます?」
「君を手放したくないだけだよ」
そう言って、にっこりと満面の笑みを浮かべた。手放したくないというよりは、逃げられないようにしたい。婚約して、結婚して、縛り付けてしまわないと安心できない。さすがにそこまで暴露するつもりはないが、要するに責任などではなく悠人のわがままということだ。
涼風はぎゅっと上掛けを掴み、頬を染めた。
「……後悔しても知りませんよ?」
「それは、イエスということでいいんだな?」
その念押しに、恥ずかしそうに首肯して「よろしくお願いします」と言う。
悠人は我知らず安堵の息をついた。彼女なら受け入れてくれるのではないかと思っていたが、それでも実際に確認するまでは不安だった。今は承諾してくれたことに心から感謝している。これから先、ずっと君を大切にするから——その誓いを胸に、ベッドに手をつきながら身を屈めて口づけを落とした。
涼風はすこし驚いていたが、悠人を見上げてはにかむと幸せそうにふわりと微笑んだ。