「ご婚約おめでとうございます!」
一面のガラス窓から光が降りそそぐ橘の応接室で、悠人と涼風がそろって婚約の報告をすると、向かいに座る澪は間髪を入れずに声をはずませた。その隣の遥も驚きもせずに微笑んでいる。まるで、二人ともすでにどこかから聞き及んでいたかのように——。
涼風とホテルのスイートルームに泊まったあの日、本当に婚約指輪を買い、その足で剛三のところまで報告しに行った。さすがの彼もこの展開は予想していなかったらしく、半ばあきれたように驚いていたが、それでも「よかったな」とあたたかく祝福してくれた。
年が明けてから、悠人の両親にも報告した。
父親はあまり表情には出していなかったものの、この事態を意外に思っている様子は見てとれた。あれほど執着していた澪に振られてから一年も経っていないことも、お膳立てがなければ何もできない情けない人間であることも、すべて知られているのだ。婚約したなどにわかに信じられるものではない。悠人自身でさえ信じがたいくらいなのだから。
私には関係のないことだ、好きにしろ——父親が口にした言葉はそれだけだった。すでに勘当されたも同然なのだから仕方ないだろう。反対されなかっただけ良かったのかもしれない。もちろん、反対されたところで従うつもりは微塵もないが。
ただ、涼風には申し訳ないことをしたと思う。父親との関係が良好でないことはあらかじめ伝えてあり、おそらく歓迎されないだろうとも言っておいたが、やはり目の前でそういう態度をとられるのはつらいはずだ。いくら気にしていないように見えたとしても。
しかしながら母親の方はとても喜んでくれた。今まで結婚しろと言われたことはほとんどなかったが、このまま一生独身に違いないと、ひそかに悠人の先行きを心配していたらしい。ようやく肩の荷が下りたと言っていた。涼風のことも「かわいらしいお嬢さん」と気に入ってくれたようだ。
保護者代わりとして面倒を見てきた澪と遥には、澪の結婚式が終わるまで黙っておくことにした。涼風の希望である。澪がよけいなことに気をまわさなくていいようにという配慮らしいが、悠人としてはそこまでする必要はないと感じていた。しかし、それで涼風の気がすむのならと希望どおりにしたのである。
桜吹雪の舞う澪の結婚式が終わり、あじさいの咲く季節になったころ、ようやく二人を呼んで報告したのだが——。
「もしかして、知ってた?」
「バレバレでしたよ」
尋ねると、澪はいたずらっぽい口調でからかうようにそう答えた。つまり誰かから話を聞いたわけではなく、態度でわかったということだろうか。思わず、隣の涼風と疑問の浮かんだ目を見合わせる。
「私の結婚式で涼風さんが倒れたとき、あせって『涼風』って呼んでましたよね。いつもは『日比野さん』だったのに。他人のことで必死になってるのもめずらしいし、ふたりの会話もやけに親密そうだったし、付き合ってるんじゃないかなって思ったの」
澪は得意気にそう言ってエヘッと笑う。
あまりよく覚えていないが、言われてみればそうだったかもしれない。あのときは遅れてきた涼風が着くなり倒れて、それを見た悠人は頭の中が真っ白になった。それでもどうにか平静をよそおったつもりだったが、よそおいきれていなかったのだろう。
医師の診断では貧血と過労ということだった。涼風はもともと貧血ぎみで、忙しくなると悪化する傾向があるらしい。仕事が立て込んでいたことはわかっていたのに、それでも悠人との時間を作ってくれる彼女に甘えていた。無理をさせてしまったのは悠人にも責任がある。
「僕はもっと前からあやしいと思ってたけどね」
ふいに遥が涼しい顔で切り出した。無意識に眉を寄せた悠人を見て、ふっと笑う。
「師匠、日比野さんとお酒を飲んでぐでんぐでんに酔ってたことがあったけど」
「いや、そのときはまだ……」
「心を許してない相手とだったら酔いつぶれるまで飲まないよね。師匠は警戒心が強いからそのへんはちゃんとしてるはずだし。だから、少なくとも日比野さんのことを信頼してたってことでしょ? 師匠が誰かを信頼するってめずらしいんじゃない?」
指摘がいちいち鋭くて心臓に悪い。微妙な面持ちで固まっていると、遥はさらに畳みかけてくる。
「今年に入ってからどこかに泊まってくることが多くなったよね。しかも妙に浮かれてる感じだし、私服のときもあるし。じいさんに訊いたら仕事じゃなさそうな口ぶりだった」
ちらりと隣に目を向けると、涼風が小さく身をすくめながらほんのりと頬を染めていた。遥もわかって言っているのだろうが、彼女のマンションへ行っていたのだ。剛三にも婚約のことは内緒にしてほしいと頼んでいたので、行き先を言わないでくれたようだが、察しのついていた遥には悟られてしまったのだろう。
「まあ、確信したのは澪の結婚式だけどね」
「…………」
別にどうしても隠したかったわけではないので構わないが、さすがにここまで見透かされていたかと思うと恥ずかしくなる。涼風とともにきまりの悪そうな顔になり目を伏せる。しかし、遥はそんな二人を見てふっと笑みを浮かべた。
「お似合いだと思うよ。師匠には幸せになってほしかったから良かった」
「ありがとう……」
遥にあたたかい言葉をかけてもらうなど意外で、何かくすぐったい。思えば彼にも随分と心配をかけた気がする。なにせ保護者が妹に結婚を迫るという事態になっていたのだ。それでもあまり口出しせず一歩引いたところから見ている感じだったが、澪にふられてからは何かと理由をつけて悠人のもとを訪れてくれていた。
一方、澪は両手を組み合わせてはしゃいだ声を上げる。
「私も涼風さんに初めて会ったときから師匠とお似合いだと思ってました」
「澪は自分を解放してもらいたいから日比野さんを押しつけようとしてただけだよね」
「そんなことっ……なかったとは言わないけど、お似合いって思ったのも本当だもん」
遥がさらりと辛辣な指摘をして、澪が口をとがらせる。こういった口論はいつものことなので心配する必要はない。たいていその場限りで本気の喧嘩に発展することはないのだ。ただ——悠人は表情を硬くし、うつむいて膝の上で両手を組み合わせる。
「すまなかった」
「えっ?」
「……いや」
やはり今さら蒸し返すことではないと思い、言葉を飲み込む。
澪に結婚を迫ったことに対していまだ罪悪感が消えないのは、かなり強引で卑怯なまねをした自覚があるからだ。剛三に焚きつけられて強気になっていたのだろう。彼氏から取り返したかったというのもあったと思う。そして、手に入れられなかった大地と美咲の代替として、娘である澪に執着していた——大地にはそう指摘されたが、実際のところどうだったのかは今でもよくわからない。そういう部分も無意識ながらあったのかもしれない。
「そういえば、お父さまには報告しました?」
「ん、ああ……このまえ出張のついでにな」
ちょうど大地のことを考えていたときに彼のことを切り出され、内心ドキリとする。
「何か言ってました?」
「やればできるじゃないか、とか」
「なんか相変わらずみたいですね」
あきれたようなほっとしたような口調でそう言い、澪は肩をすくめる。
大地に報告したところ、最初は何かの冗談だと思っていたようだが、本当だとわかると急にしたり顔になった。澪に執着せず普通の恋愛をするよう悠人に勧めていたからだ。悠人としては大きなお世話としか思っていなかったのに、結果的にそのとおりになってしまい、もちろん後悔はしていないが若干腹立たしくはある。
隣では涼風がくすりと笑っている。彼女には澪に話していないことも知られているので、少々バツが悪い。きっと彼女にはわかっているのだろう。そんな大地の態度に腹立たしさを感じる一方で、どこか嬉しく、そしてすこし寂しく思っていることに。
黙って話を聞きながら紅茶を飲んでいた遥が、ティーカップを戻して口をひらく。
「結婚はいつなの?」
「12月上旬の予定だ」
婚約したのが昨年のクリスマスなので、およそ一年後である。悠人としては籍だけでも早々に入れてしまいたかったが、剛三に止められた。足元をすくわれないためにも、足元を盤石に固めるためにも、根回しや準備が必要だという。悠人個人にとってはどうでもいいことだが、大地の代わりに橘財閥を守る役目を引き受けた以上、逆らうわけにはいかない。
「式にはぜひ来てね」
「もちろんです!」
涼風がにっこり微笑んで声をかけると、澪は声をはずませて即答し、隣の遥も迷うことなく頷いた。
悠人も、涼風も、本当は澪の結婚式のようなアットホームなものを望んでいたが、立場上そういうわけにもいかなくなった。お披露目のためにそれなりに盛大な披露宴をすることになるだろう。
すでに涼風を婚約者としてパーティに同伴するなど、彼女にはこちらの事情で面倒をかけているが、文句もいわず協力してくれている。ありがたいというより申し訳ない気持ちの方が強い。もし彼女がこころない誰かに傷つけられるようなことがあれば、何をおいても全力で守ろうと決めている。たとえ、世話になった剛三に背を向けることになるとしても——。
「じゃあ、僕は涼風を送っていくから」
「おじゃましました……あら、澪ちゃんは?」
応接間でひとしきり話をしたあと、四人で玄関まで降りてきたつもりだったが、いつのまにか澪がいなくなっていた。遥ならともかく澪が何も言わずにというのはめずらしい。
「もうすぐ来ると思うから、ちょっと待ってて」
遥がそう答えた直後、軽やかな足音を立てて大階段から澪が駆け降りてきた。その腕いっぱいに抱えられていたものは——。
「私と遥から婚約のお祝いです」
「あらためておめでとう」
二人は口々にそう言いながら、真紅のバラを中心とした大きな花束を涼風に手渡した。
涼風は目をぱちくりとさせて花束を見つめたあと、不思議そうに隣の悠人を見上げたが、もちろん悠人も知らなかったので驚いている。婚約の報告をするなど、澪にも遥にもひとことも言ってなかったのに——。
「これあらかじめ用意してたの?」
「婚約の話かなって思ったから」
澪はそう答えると、ねっ、と隣の遥に同意を求めて互いにくすりと笑い合う。遥の表情からすると、無理やり巻き込まれたわけではなさそうだ。悠人は腰に手をあてて軽く吐息を落とす。
「違ったらと考えなかったの?」
「そのときはそのときです」
確かに澪はそういう考えなしなタイプだが、遥まで同調していたことが驚きである。無謀な彼女をたしなめる役割だと思っていたのに。逆にいえばそれだけ確信があったということかもしれない。
「澪ちゃんも、遥くんも……本当にありがとう。すごく嬉しい」
涼風は花束に埋もれながら、ほんのりと頬を染めてとびきりの笑顔を見せた。
外に出ると、通り雨が降ったらしく地面がすこし濡れていた。白い雲のあいだから太陽が顔を出し、草花や木々に落ちた雨の雫がきらめいている。そして、水色の空にはうっすらと七色の虹が架かっていた。
「車をとってくるから、ここで待ってて」
裏門のところでそう言って振り向くと、涼風は澪たちにもらった花束を見つめて瞳を潤ませていた。きゅっと口を引きむすび、涙が零れないようこらえているように見える。
「どうしたんだ?」
「いえ、こんなに歓迎されるなんて、思わなかったから……」
そう言うと同時にぽろぽろと雫がこぼれ、赤い花弁に落ちてはじける。
嬉しいというより安堵の方が大きいのかもしれない。何でもないふりをしていたが、この件でひどく緊張していることはわかっていた。誰だって親しくしている人に反対されるとつらい。冷静に考えれば、遥はともかく澪が反対するはずはないとわかりそうなものだが、不安にとらわれるととかく負の思考に陥るものだ。
「ごめんなさい」
「構わないよ」
ふっと笑みを浮かべ、両手がふさがっている彼女の目元をハンカチでぬぐう。
涼風が泣いているところを見るのは、初めて出会った子供のころを除けば二度目である。どちらも張りつめていた糸がぷつりと切れたときだ。つらいことには堪えられても、その緊張が途切れたときはうまく取り繕えないのだろう。
「二人きりのときは遠慮しなくていいから。泣きたいだけ泣けばいい」
「……ありがとう、悠人さん」
涼風はそう言うと、長い睫毛を濡らしたまま小さくはにかんだ。
きっとこれからも彼女の涙を目にすることはあるだろう。それがどんな涙であっても受け止めるつもりでいる。だが、できるだけ悲しい涙は流さずにすむよう守っていきたい。彼女の瞳から零れるのはきれいな涙だけであってほしい——そんなことを願いながら、彼女の背中に手をまわして優しく微笑みかけた。