東京ラビリンス

青い炎 - 第2話 本当に欲しいものだけは

「よかった、最初は勝っておきたかったからな」
 悠人が昇降口に張り出された紙を眺めていると、大地が背後から勢いよく肩を組んでそう言ってきた。その声ははずんでいる。表情からも上機嫌であることはありありと見てとれた。

 入学式翌日に新入生の学力考査が行われ、その翌週である今日、成績上位者一覧が昇降口に張り出された。悠人は三位、そして大地は二位である。点数は一点違いだ。
 正直いって大地に負けるなどとは考えもしなかった。財閥の御曹司ということでわがまま放題やっていて、まともに勉強などしていないと思っていた。同級生と軽いノリで話すあたりも頭が良さそうには見えなかった。レッテルを貼って見下していたのは自分の方かもしれない。
「……今度は負けない」
「望むところだ」
 ガヤガヤとした人だかりの中でぽつりとつぶやいた悠人に、大地は肩を組んだまま答える。そして無遠慮にじっと横目を流して悠人の顔を見つめると、挑むように口もとを上げた。

 入学式からの一週間、悠人は相変わらず冷ややかな態度を見せていたが、大地はそれでも懲りずにまとわりついてきた。さすがに授業中は前を向いて真面目におとなしくしている。しかし、休み時間になると必ず後ろを向いて話しかけてくるのだ。無視しても気にすることなく一方的に話し続けるし、トイレにまでついてくる始末だ。
 変なやつに目をつけられたな——。
 うざったいとは思うものの特に実害はないので放置していた。さすがにずっと無視していられるほど神経が図太くないので、訊かれたことにはぽつぽつと答えている。そうすると嬉しそうに破顔するのが若干腹立たしいが、悪い気はしない。すこしずつ彼への態度が軟化していることを自覚していた。
 そして今朝、学力考査の結果を目の当たりにしたことで、頑なな心がまたすこし融けていくのを感じた。

「橘、部活まだ決めてないならサッカー部に来いよ」
「悪い、部活はやらないつもりなんだ」
 放課後、帰り支度をしているところへ声をかけてきた男子に、大地は軽い調子で断りを入れた。先輩に勧誘してこいって言われてるんだ、頼むよ、とりあえず仮入部でいいからさ、などとしつこく食い下がられていたが、最後まで頷くことはなかった。
 大地へのこういった部活勧誘は初めてではない。悠人が見かけただけでも、剣道部、テニス部、バスケ部、水泳部、将棋部、囲碁部、演劇部から声をかけられていた。演劇部は別として、それ以外はいずれも純粋に戦力として欲しがっているようだった。
 体育の授業ではまだ軽い体操と運動くらいしかしていないが、それだけでも彼の高い運動能力は感じられた。頭もいいので将棋や囲碁といった頭脳競技も得意なのだろう。それに加え、橘財閥の御曹司として名を知られていることも大きいのかもしれない。いくら優秀でも存在を知られていなければ声はかからないのだから。
「引っ張りだこだな」
「まあね」
 大地はそっけなく答え、表情を変えることなく学生鞄を掴んで席を立った。行くよ、と声をかけられて悠人も学生鞄を手に立ち上がる。この一週間、大地に付き合わされて途中まで一緒に帰っており、なんとなくそれが当たり前になりつつあった。
「おまえ、どうして部活やらないんだ?」
「部活よりやりたいことがあるんだよ」
 なんだろうと気にはなったが、私的な領域に踏み入ることになりそうで訊くのを躊躇した。具体的に言わなかったのは言いたくないということだろう。そう結論づけて口をつぐむ。
「悠人こそどうしてやらないんだ?」
「興味がない」
「剣道は? やってたんじゃないの?」
 何気ない調子で発せられたその言葉に、悠人は息を飲んだ。怪訝に眉をひそめて隣の彼を見る。
「……どうして知っている」
「やっぱりそうだったんだ」
「当てずっぽうか?」
「動きを見てそう思っただけ」
 大地はニコッとして事も無げに答えた。
 確かに小学校卒業までは剣道を習っていた。あと柔道も。就学前、まだ父親から期待をかけられていたときに、強制的に習いに行かされたのである。小学生のあいだはそのまま惰性で続けていたが、特に好きでもなかったのでやめさせてもらったのだ。
 しかし週一回の剣道教室でそこまで真面目に取り組んでおらず、動きが染みついているとも思えないのに、普段の姿だけで剣道をしていたことがわかるのだろうか。もし本当にどこかしら剣道的な動きが出ていたのだとしても、達人でもない大地が気付くものだろうか。いや、大地の腕がどの程度なのかはまったく知らないのだが。
 胡散臭げな視線を送りつつ昇降口で靴を履き替えていると、大地は振り向いてニヤリとした。
「時間があるならうちに来いよ」
「……えっ?」

 悠人は唖然とし、眼前にそびえ立つ白亜の洋館を仰ぎ見る。
 大地に誘われたときはどうしようかとすこし悩んだが、橘財閥の御曹司がどんな家に住んでいるのか気になり、結局はついてきてしまった。もちろん豪邸なのだろうとある程度は予想していたつもりである。しかしながらまさかここまでとは思わなかった。個人の邸宅とはとても思えない。迎賓館と言われれば納得してしまいそうな建物だ。
「いつもは裏口から出入りしてるんだけどね」
 大地はそう言い、悠人を促しながら洋館の正面入口へと足を進める。その大きな扉が内側から開いて、黒いスーツを着た壮年の男性が静かに出迎えた。手には白い手袋がはめられている。
「この人は執事の櫻井さん。もともと父さんの護衛をしてたんだけど、大怪我してからうちの執事になったんだ」
「執事……」
 悠人は鸚鵡返しにつぶやく。現代日本に本物の執事がいたことに驚きつつも、これだけ大きな家なら必要だろうなと納得もした。どんな仕事なのかはよくわかっていないのだが。丁寧に一礼する櫻井につられるように、悠人もおずおずと頭を下げた。
「僕の部屋へ行こう」
「……ああ」
 やたら天井の高い玄関ホールと正面の大階段に圧倒されながら、櫻井の用意したスリッパに履き替えると、さっさと先に進んでいく大地を小走りで追いかけた。

「さ、ここが僕の部屋だよ」
「……え」
 これだけの豪邸なのだから彼の部屋もさぞ豪華なのだろう——そう思っていたのに、扉を開けた先にあったのは広くもなく華美でもない質素ともいえる部屋だった。広さは十畳くらいだろうか。目につく家具は、ベッド、学習机、戸棚、本棚くらいで、物は良いのかもしれないがデザインはいたって普通である。全体的にすっきりとしており悠人の部屋とあまり変わらない印象だ。
「がっかりした?」
「そういうわけじゃ」
 大地に顔を覗き込んでいたずらっぽく尋ねられ、きまり悪さに口ごもる。がっかりしたというのは言いすぎだが、拍子抜けしたのは事実だ。しかし、よく考えてみればこれで良かったのかもしれない。あまりに感覚が違いすぎると友達でいるのも難しいはずだ。
「さっそくだけど、中庭に行こうか」
 大地は手にしていた学生鞄を机に置いて振り返り、にっこりとする。
「中庭? 何かあるのか?」
「行ってからのお楽しみさ」
 何を企んでいるのかわからないがとても浮かれているようだ。悠人は思いきり怪訝な顔をしたが、彼はお構いなしに学生鞄を置かせて強引に部屋から連れ出した。

 悠人が連れてこられたのは、中庭の見えるだだっ広い部屋だった。
 中庭に面したところは全面ガラス窓になっており、その向こうには青々とした芝生が広がっている。端の方には木々や花も植わっているようだが、特にめずらしいものがあるようには見えない。
「そこ座って」
 大地に促されて窓際の黒いソファに腰を下ろしたが、彼自身は座ろうとしない。その場に立ったままなぜか制服のブレザーを脱ぎ、向かいのソファの背もたれにバサリと掛けた。
「……なにをやっている?」
「いいもの見せてやるよ」
 そう言って口の端を上げ、思わせぶりに片手でネクタイの結び目を解いていくと、抜き去ったそれを無造作に悠人の方へ投げてよこした。オレンジ色のネクタイが膝に落ちて悠人は顔をしかめる。いったい何のつもりなのだろうと怪訝な視線を送ると、大地はくすりと笑った。
「ここでちょっと待ってろよ」
「ちょっとって……?」
 その質問には答えず、ひらひらと手を振りながら部屋を出て行ってしまった。
 見知らぬ豪邸の一室に理由もわからないままひとり残され、悠人は落ち着かない。しんと静まりかえっているためか息が詰まりそうになる。大地が戻ってこなかったらどうしよう、知らない人が来たらどうしよう、ここから無事に帰れるのだろうか——不安が募り、縋るように膝に落ちていたネクタイを握る。
「悠人っ!」
 しばらくソファでじっと体をこわばらせていたが、中庭の方から声が聞こえた気がして振り向くと、芝生の中央に大地が立っていた。笑顔でこちらを見ながら手を振っている。すこし離れたところには執事の櫻井もいた。先ほどと同じくきっちりとスーツを身につけている。
 何をしているんだ——?
 思わず立ち上がり、ガラス窓に張りついて訝しげに見つめる。
 すると大地は真顔になり、櫻井と向かい合いながら腰を落として身構えた。櫻井も足を前後に開いて体を斜めにし、すぐに動き出せる体勢をとる。二人のあいだの雰囲気が張りつめるのを感じる。そして——。
「はあっ!」
 大地が地面を蹴って櫻井にまっすぐ突進し、こぶしで殴りかかった。が、櫻井はひょいとかわしてその腕を取り、勢いを利用してなめらかに投げ飛ばす。大地は受け身を取りくるりと一回転して起き上がると、しゃがんだまま櫻井の足元を狙って蹴りを入れた。彼はそれも軽くかわす。
 戦ってる——?
 悠人はわけがわからず唖然としながらも、目の前で繰り広げられる光景に釘付けになった。まるで映画や漫画みたいだ。手にしていた大地のネクタイを無意識にぎゅっと握りしめる。
 しばらく攻防が続いたが、櫻井が余裕で受け流していることは素人目にもわかった。体格差もあるが、それ以前に動きや技術が全然違う。大地が必死に立ち向かってもまるで歯が立たない。やがて苦しげに息切れしてきたかと思うと、軽く足元をとられて地面に組み伏せられた。
 それで終了なのだろう。大地は差し出された櫻井の手をとって立ち上がると、一瞬くやしそうな顔を見せたが、気を取り直すようにゆっくりと深呼吸する。そしてニコッと笑みを浮かべて悠人に振り向き、手を振った。

「見てくれた?」
 中庭から大地の姿が消えてまもなく部屋に戻ってきた。色白の顔がうっすらと上気して汗がにじみ、さらさらの黒髪や制服の白シャツがすこし乱れている。それでも気にすることなく悠人の向かいに腰を下ろした。
「さっきのは……?」
「近接格闘術だよ。自衛隊員や身辺警護の人なんかが使う実戦的なものでさ。僕は護身術として櫻井さんから教えてもらってるんだ。まだまだ初心者だけど」
 そう言い、無邪気な笑顔を見せる。
 学校で言っていた「部活よりやりたいこと」というのはこれなのだろう。彼の表情を見ればすぐにわかった。夢中になれるものをひとつでも持っていることがうらやましい。悠人には何もなかった。今までも、そしておそらくこれからも——。
「悠人も一緒にやらないか?」
「えっ?」
 きょとんとして顔を上げると、大地がキラキラした目でこちらを見ていた。
「ここで僕と一緒に櫻井さんから教わろうよ。そうしてくれると嬉しい。悠人はちょうど僕とおなじくらいの体格だから、組み手をやるにはちょうどいいんだ。櫻井さんも本来の仕事があるから、いつでも僕の相手してくれるわけじゃないしね」
「……まあ、いいけど」
 すこし考えてからぼそりと答える。思いもしない提案だったが嫌だとは思わなかった。どういうものなのかまだ詳しくはわからないが、先ほどの光景には大いに興味を掻き立てられた。もし自分にもできるのだとしたら——そう考えるだけで、気持ちがわずかに高揚するのを感じる。
 そんな悠人を見て、大地は満足げに顔をほころばせた。
「よかった、これで訓練がはかどりそうだ」
「そのために僕に近づいたのか?」
「いや、最初はそんなこと考えてなかったよ」
 本当は剣道や柔道をやっていることを知っていて、訓練の相手をさせるつもりで声をかけてきた、というのなら辻褄が合う。しかしながらその推測は軽く否定されてしまった。
「じゃあ、どうして僕だったんだ?」
「どうしてだろうな」
 以前に尋ねたときと同じくまたしてもはぐらかされた。眉をしかめると、大地はソファに身を預けてくちびるに笑みをのせる。
「三歳のときにさ、近所でたまたま見かけた野良犬に一目惚れしてね。みんなに大反対されたけど、僕は何を言われても頑としてあきらめようとしなくて、最後には両親が折れて飼うことを許してくれたんだ。ハヤテって名付けて可愛がったよ。一年前に死んじゃって今はもういないけど」
 いきなり何の脈絡もなく飼い犬の話をされ、悠人は困惑した。
 大地は思わせぶりに笑みを深くして言葉を継ぐ。
「僕はそんなに欲深い方じゃないと思ってるけど、本当に欲しいものだけは、どんな手をつかっても自分のものにしたくなる。その犬以来なんだよ、僕がこんなにも何かを欲しいと思ったのは」
 つまり——悠人の眉がけわしくなる。
「僕は、犬の代わりか?」
「大事にしていた犬だよ」
「…………」
 もともと彼にとって自分は暇つぶしのおもちゃでしかないだろうと思っていたので、冷静に考えてみれば納得のいく話である。おもちゃではなく犬だっただけのことだ。ふう、とソファにもたれかかりながら疲れたように溜息を落とす。
 それでも大地は楽しそうにニコニコと笑みを浮かべたまま、何のつもりか無言で手のひらを差し出してきた。まるで「お手」と言わんばかりに。悠人はムッとして、握りしめていた彼のネクタイを力いっぱい投げつけるように返した。