東京ラビリンス

青い炎 - 第3話 僕の彼女じゃないだろう

「また、僕の勝ちだな」
 大地に馬乗りで地面に組み伏せられたまま、背後から熱い吐息とともに耳元でそう言われ、悠人はカッと顔が熱くなった。払い除けようにも両手を拘束されて自由がきかず、ただグッと奥歯を噛みしめることしかできない。早くどいてくれと必死に願いながら——。

 先日、大地の家に初めて誘われて以来、学校帰りには必ず寄るようになった。休日も互いに予定がなければ訪問している。夕食の時間までには自宅に帰っているが、おやつや休日の昼食はごちそうになっており、もはや入りびたりといってもいいだろう。
 それでも家が広いためか邪魔をしている感覚はほとんどなく、あまり気を遣うこともない。大地の父親にはまだ会っていないが、母親の瑞穂も、執事の櫻井も、ほかの使用人も、大地が初めて家に連れてきた友人ということで、みな一様に悠人を歓迎してくれているようだ。おかげで自分の家よりもよほど居心地がよかった。
 約束どおり、大地の家では主に近接格闘術を習っている。
 まったくの初心者なので、最初のうちは執事の櫻井に手取り足取り基本を教えてもらった。そして、三週間が過ぎたころから大地と組み手を行うようになった。それから一週間、いつもあっけなく地面に組み伏せられてしまい、いまだにただの一度も勝てたことがない。

「悠人さん、だいぶ上達しましたね」
 差し出された大地の手を取って立ち、ジャージの汚れをはらっていると、櫻井がにこやかにそう言ってきた。
 最初に会ったときは無表情だったので気難しい人かと思ったが、格闘術を教わるようになってすぐにそれが誤解だとわかった。元護衛とは信じられないほど物腰が柔らかく、よく穏やかな笑みを浮かべており、初心者の悠人にも優しく丁寧に指導してくれるのだ。
 対照的に、体の方はさすが元護衛と納得させられるものだった。スーツを着ているとよくわからなかったが、触ってみると細身でありながら筋肉は堅く、驚くほど鍛えられた体をしていた。これでも現役時代よりは筋肉が落ちているという。
 護衛中に負傷し、その後遺症で護衛を続けられなくなったため、橘の家で執事として雇われることになったと聞いている。しかし、悠人が見るかぎり怪我の後遺症などまるでわからない。普段の生活には支障のない程度ということなので、さほどひどくはないのだろう。それでも護衛として万全の仕事ができないので引退したようだ。
「大地さんに勝てる日もそう遠くないと思いますよ」
「……頑張ります」
 悠人としてはまったくいいところを見せられなかった気がするが、師匠の櫻井にそう言ってもらえるとすこし自信が出てくる。格闘術に関しては下手な慰めをする人ではないはずだ。表情を引き締め、気合いを入れ直すようにひとり小さく頷く。
「櫻井さんは悠人びいきだよね」
 大地は軽く肩をすくめてそう言い、両手を腰にあてた。
「いえ、決してそのようなことは」
「別に構わないよ、悠人ならね」
 櫻井の顔はこころなしか硬くなっているようだった。実際に悠人をひいきしているかどうかはわからないが、仕えている家の息子にそう思われるのはやはりまずいのだろう。構わない、というのが大地の本心とは限らないのだから。
「大地、あの……」
「そろそろ宿題やらないとな」
 櫻井を庇おうとした悠人を遮るように、大地は話題を変えた。
「宿題、何があったっけ?」
「……数学と英語」
「けっこう面倒なやつだな」
 そうつぶやくと、悠人の手首を掴んで大股で歩き出す。
 やはり櫻井の発言に腹を立てているのだろうか。それとも悠人の態度が気に入らないのだろうか。悠人は乱暴に手を引かれてよろめきながらも、櫻井に振り返って頭を下げる。彼はその場に立ちつくしたまま曖昧な笑みを浮かべていた。

 中庭から戻ると、訓練用のジャージから制服に着替えて宿題を始めた。大地の部屋には一人分の机しかないこともあり、いつも中庭の見える広い部屋で行っている。そして、いつも何かしらおやつが用意されている。今日は紅茶とロールケーキだ。
 四人掛けのテーブルセットに向かい合って座っているものの、互いに黙々と進めるだけである。今のところ宿題でつまずいたことは皆無なので教え合うこともなく、一緒にやる意味があるのかどうかわからない。
 それでも、悠人は嬉しかった。
 大地にまとわりつかれて最初は煩わしいだけだったが、次第にいることが当たり前になり、いないと寂しいとさえ思うようになっていた。からかわれて腹の立つことも多いのに、それでも一緒にいたいと思うのはなぜだろう——。
「どうした?」
「……別に」
 大地は視線を感じたのか顔を上げて不思議そうに尋ねてきた。悠人はとっさにプリントに目を落としてそっけなく答えると、シャープペンシルを走らせる。その文字がいつもより乱れていることに気付き、ふいにギュッと胸が締め付けられるのを感じた。

 ——七月中旬。
 陽射しが日に日に強くなり、半袖シャツでも汗がにじむようになっていた。夏休みまであと数日だ。
 中間考査、期末考査はどちらも大地に勝てなかった。順位は変わらずいつも大地のひとつ下である。格闘術の方も互角に渡り合えるようになった実感はあるが、最後の最後に勝つのはやはり大地だった。出会ってから今まで何ひとつ彼に勝てたものがない。手が届きそうで届かないのがくやしくてもどかしかった。
 しかし、この状況を嫌だと思っているわけではない。
 彼と競い合えることは純粋に嬉しい。負けたくない、勝ちたい、そんなまっすぐな熱意を持ったのは初めてのことだ。毎日が楽しいと思うようになったのも彼と出会ってからだ。なんとなく、これからもずっとこんな日々が続いていくと思っていた。なのに——。

「橘くん」
 いつものように大地と二人で帰ろうと昇降口を出たところで、女子二人組に呼び止められた。そのどちらにも見覚えがないのでクラスメイトではないだろう。ひとりはさらさらな黒髪のおしとやかそうな美少女、もうひとりはおかっぱで快活そうな子である。声をかけてきたのはおかっぱの方だ。
「突然ごめんね。私たち三年生なんだけど、ちょっとだけ時間いいかな? 橘くんにお話しがあるの。十分もあれば終わると思うから」
「……いいですけど」
 大地は表情を変えずにそう答えた。悠人は驚き、腕を掴んですこし離れたところに引っ張っていくと、彼女たちの方を気にしながら耳元で声をひそめて尋ねる。
「知ってる人か?」
「顔は見たことあるけど、話したことはない」
「やめておいた方がいいんじゃないのか?」
「大丈夫だよ、悠人は先に家に行っててくれ」
 大地は忠告を聞き入れようとせず、なだめるように悠人の背中をぽんと叩いて、彼女たちとともに校庭の方へ足を進めた。
 彼には初等部から仲良くしている同級生が男女問わず多く、また部活の勧誘などもあり、一緒にいるときも何かと声をかけられることは多かった。けれど、今回は今までとは何かが違う。言葉では言い表せないが、胸がもやもやするような嫌な予感が湧き上がり、彼の消えていった方を見つめながら眉をしかめた。

「ただいま」
 中庭の見える部屋で紅茶を飲みながら文庫本を読んでいると、大地が帰ってきた。彼の家なのにただいまなどと言われてはこちらが返答に困る。しかし、彼は無言のままの悠人を気にする様子もなく、あたりまえのように正面のいつもの席に腰を下ろした。
 何の話だったんだろう——。
 文庫本にしおりを挟みながら上目遣いでちらりと窺うと、彼はにこやかな笑みを浮かべていた。たいした話ではなかったのだろうか。気にはなるが、無関係な自分が詮索することはためらわれた。しかし——。
「さっきの話さ」
 大地の方からそう切り出してきた。
 悠人は固唾をのみ、閉じた文庫本を握りしめる。
「髪が長い方の人、三年生で結城舞花さんっていうんだけど、彼女に好きだから付き合ってって言われた。すこし悩んだけど付き合うことにしたよ」
 付き合う——?
 悠人は口を引きむすんだまま大きく目を見開く。二年先輩の彼女に告白されていたことにも驚いたが、それより大地の答えに納得がいかなかった。確か彼女とは話したこともないと言っていたはずだ。面識もないのにいきなり恋人になるなどありえない。だいいち放課後も休日もずっと二人で過ごしていたのに、彼女と付き合うとなったらどうするつもりなのだろう。
 そんな悠人の気持ちを知ってか知らずか、大地はくすりと笑う。
「おまえ、そんな顔するなよ」
「そんな顔って……」
「この世の終わりみたいな」
「別に、してない……」
 否定はするが、おそらくそういう顔をしていたのだろう。言われて自覚した。だからといって素直に認めたくはない。面白がっている大地を見ていると腹が立った。そして不安で胸が押しつぶされそうになる。訊きたいことはたくさんあるのに、頭も心もひどく混乱して言葉を紡ぐことができない。
 しんと静まりかえったところへ、男性の使用人がティーポットに入った紅茶を運んできた。大地の前で手際よくティーカップに注いで差し出す。ありがとう、と大地は礼を言って使用人を下がらせると、湯気の立ちのぼる紅茶にゆっくりと口をつけ、それをソーサに戻してから悠人に目を向ける。
「なあ、悠人は僕の彼女じゃないだろう?」
「……あたりまえだ」
 悠人は怪訝に眉をひそめて答える。
 だから何も言う資格はないと釘を刺しているのだろうか。だから悠人はもう必要ないと言いたいのだろうか。そもそも嫌がる悠人にしつこくつきまとってきたのは大地なのに、今さら勝手すぎる。そう思って反抗するように睨みつけたが——。
「だから別れなくてもいいんだよ」
「別、れ……?」
 思いもよらない発言に思考が追いつかない。しかし、大地は素知らぬ顔で淡々と続ける。
「僕らは今までどおり何も変わらない」
「でも、彼女と付き合うんだったら……」
「一緒にいられる時間は少なくなるね」
「…………」
 無意識に眉を寄せると、形のいい彼のくちびるが緩やかに弧を描いた。
「だからさ、すこしでも長く一緒にいられるように、僕がいなくてもうちに来て待っててくれ。もちろん夏休みのあいだもね。格闘術の訓練も宿題も全部ここでやればいい」
「……勝手なことばかり言いやがって」
「今までどおり何も変わらないだろう?」
 おまえがいないじゃないか、と思うものの声には出さなかった。代わりに非難のまなざしを送る。それでも大地は余裕の笑みを浮かべたままだ。
「悠人を手放しはしないよ」
 だったらなんで面識もない女と付き合うんだ、僕より女を選んでおきながら勝手なことを、おまえにとって僕はいったい何なんだ——頭に浮かんだ言葉は、あまりにも女々しくて口にすることができない。さすがに気持ち悪いという自覚はある。友人といえるかどうかも微妙な立場だというのに。
 それでも彼に従いさえすればこの関係を継続できる。だから、醜い感情を飲み込んで頷くしかなかった。