東京ラビリンス

青い炎 - 第9話 ちゃんと待っててやるから

「あ……んっ……ゆ、とさん……ああ!」
 やたらと耳に残る、控えめながらよく通る声。息もまともにできず苦しそうではあるが、そこには相反する甘さが含まれている。雪のように白い肌はしっとりと湿り気を帯びながら紅潮し、いつも穏やかな顔がこのときばかりは余裕をなくす。
 悠人は熱い息を吐き、涙が零れそうなほど瞳を潤ませた彼女の膝裏に手を掛け、やわらかく濡れた中を押し広げるように腰を進めていく。そしていったんグッと最奥まで突き入れると、淫らな水音を立てながら激しく抜き挿しし、無心で快楽を追った。

 佐藤由衣と付き合い始めて三週間が過ぎた。
 それぞれ文系と理系でクラスがかなり離れているため、学校で一緒にいることはほとんどないが、放課後には彼女が悠人のクラスまで迎えに来ることになっている。その後、ふたりで図書館に行ったり、本屋に行ったり、カフェに行ったり、彼女の家に行ったり、それなりには恋人らしいことをしていた。
 最近は学校のすぐ近くにある彼女の家に誘われることが多い。両親とも仕事で忙しくしており、きょうだいもいないので、いつも夜中までひとりきりだという。実際に、何度も来ているが彼女の両親を見たことはなかった。そうでなければ悠人を家に上げたりはしないだろう。
 最初に彼女と体を重ねたのは付き合って三日目のことだ。初めて彼女の部屋に上がったときに、彼女の方から誘ってきたのである。悠人にはそんなつもりなどなかったが、ふと大地も誰かとこういうことをしているのだと考えると、何か胸の奥がざらついて誘いに乗ってやろうという気になった。
 しかし、照れもなく誘ってきた彼女が未経験だったことには、さすがに少し動揺した。大地への当てつけのように抱いてしまったことに急に罪悪感を覚える。だからといって謝罪するのも違う気がして何も言えなかった。胸の内を正直に告げる方が彼女を傷つけることになるだろう。
 だが、その後は開き直ったように体を重ねている。
 悠人としては他のことをするよりもセックスの方が気楽だった。行為の間だけは会話がなくても気まずくなることはない。何を話そうか考えることもなく、沈黙に苦痛を感じることもなく、ただひたすら快楽を追い求めていればいいのだから。

「……帰るの?」
 乱れたシングルベッドに腰掛けてシャツに袖を通していた悠人の背後から、気怠げな声が聞こえてきた。意識を飛ばしていたのでそのまま帰ろうと思っていたが、起こしてしまったようだ。ただ、まだぼんやりとしていてだいぶ眠そうではある。
「ああ、もう帰る」
「橘くんのところ?」
「……そうだ」
 彼女と過ごしたあとはいつも橘の家に行く。
 そのことを話した覚えはないのに彼女は最初から知っていたようだ。学校で大地と話しているのを聞いたのかもしれない。付き合い始めた翌日からときどき帰り際に尋ねてくるのだ。そして、そのたびに寂しげな面持ちになるのを悠人は知っていた。
「今度、よかったらうちでごはんを食べていかない? いつも自分で作ってるからけっこう得意なの」
「……考えておく」
 ズボンのベルトを締めながら、振り返りもせずそう答える。
 本当は大地との貴重な時間を削ってまで彼女と食事をするなど考えられないが、冷たく一蹴するほど非情にはなれなかった。きっちりとネクタイを締め、制服のブレザーに袖を通すと、スクールバッグを肩に掛けて立ち上がる。
「そのままでいい」
 もぞりとだるそうに体を起こそうとする彼女を制止して、薄暗い部屋に背を向けた。ドアノブに手を掛けてちらりと視線を送る。彼女は胸元を布団で隠してベッドの上にぺたりと座り、曖昧な笑みを浮かべていた。
「またあしたね」
「ああ」
 悠人は無表情でそう答えて部屋を出ると、静かに扉を閉め、足音を立てないよう階段を下りていった。

 陽が傾き、地平近くの空は茜色に染まっている。
 悠人はその中を軽く走りながら橘の家に向かっていた。大地はまだ帰っていないだろうが、それでも彼を感じられるところに一刻も早く行きたい。いつものように帰宅した彼におかえりと言いたい。いつものようにふたりで一緒に夕食をとって、それから——。
 彼女を抱けば抱くほど、大地に触れたくなる。
 そうはいっても自分から抱きついたりなどということはできない。彼の方から触れたり抱きついたりしてくるのを待つだけだ。いや、たとえ触れられなくても一緒にいられるだけで構わない。彼が悠人のことを見てくれるのであれば。
 ひどいという自覚はある。もはや大地のことをとやかく言う資格はない。冷静に考えれば悠人の方がよほど不誠実だ。大地は付き合っている彼女との相性を真面目に見極めようとしているが、悠人は向き合おうとさえしていないのだから。

「おかえり」
 部屋に入ると、いつもの席に着いて笑顔を見せる大地がいた。
 悠人はわずかに目を大きくする。普段であればまだ帰っていない時間なので少し驚いた。彼女がいるときはたいてい夕食の直前に帰ってくるのだ。もっとも彼女に他の用事があるときはその限りでないが。
「早かったんだな」
「別れたからね」
 大地は事も無げにさらりと言った。
 実際、彼にとってはもうたいしたことではなくなっている。彼女と付き合い始めてそろそろ一ヶ月になるが、だいたいそのくらいで見切りをつけて別れることが多い。いつものことなのだ。けれど——悠人は無性に胸がざわつくのを感じながら、彼の正面に腰を下ろす。
「じゃあ、これからは……」
「ああ、しばらくは僕ひとりで先に帰るよ。いつもおまえを待たせてたから、自分が待つのは何か新鮮だな」
 彼は軽く笑いながら、すでに冷め切っている湯気のない紅茶を口に運んだ。机の上には物理の教科書やノートが広げられている。悠人がいないあいだにひとりで課題を進めていたようだ。悠人が、好きでもない彼女と体を重ねているあいだに——。
「僕も別れる」
「えっ?」
「おまえと一緒にいる方がいいんだよ!」
 鬱積した感情が、堰を切ったようにあふれ出す。
 ただでさえ厄介払いされるかもしれないと不安を感じているのだ。大地と過ごせる貴重な時間を、好きでもない彼女との付き合いで失いたくはなかった。彼がどう感じるかなど考えもせず、激情にまかせてその思いをぶつけてしまう。
 カチャリ、とティーカップが小さな音を立ててソーサに戻された。
「僕は、そのうちまた別の子と付き合うよ」
 大地は淡々とそう言い、現実を思い知らせようとするかのように、感情のないまなざしで冷ややかに見据える。しかしながらのぼせた悠人は引かなかった。
「それまで三週間あるだろう」
 次に誰かと付き合うまで三週間ほど空けることは知っている。その時間のためだけに彼女と別れることに迷いはなかった。そもそも大地に命令されたから仕方なく付き合っているだけで、悠人は最初から望んでなどいなかったのだから。しかし——。
「おまえなぁ……」
 大地はひどくあきれたように溜息を落とし、頬杖をついた。ふいと表情を厳しくして言葉を継ぐ。
「そんな理由で別れたら絶交だからな」
「っ……!」
 頭上から氷水を浴びせられたかのように感じた。
 前回同様、絶交と口にすることに何のためらいも見られない。そうなっても構わないと思っているからだろう。自分だけがここで過ごすことを許されているので、つい特別なのだと勘違いしてしまうが、そもそもは死んだ飼い犬の代わりでしかなかったのだ。きっと、今も——ゆっくりと下を向いて奥歯を食いしばる。
「そんな顔するなよ」
 ふわりと優しくやわらかい声が降ってきたと思うと、あたたかい手が頬を包んだ。ビクリとして弾かれるように顔を上げる。そこにはいつもの明るい大地の笑顔があった。
「ちゃんと待っててやるからさ」
 思わぬ言葉に、ギュッと胸が締め付けられる。
 もう必要とされていないように思うこともあれば、誰よりも大事にされていると感じることもある。そのたびに一喜一憂してただひたすら翻弄されてきた。だが、彼が本当は何を考えているのかはよくわからない。本心を聞いてみたいがそんな勇気はないし、たとえ尋ねたとしてもまともに答えてくれるとは思えない。
 確実に言えるのは、自分たちの関係は大地の気持ちひとつに委ねられているということだ。いくら悠人が継続したいと望んだところで、大地が必要ないと判断すれば簡単に切られてしまう。過去の彼女たちのように。頭ではわかっているつもりだが覚悟となると難しい。たびたびこんなふうに期待をさせられては、なおさら——。
 悠人は頬に当てられた手のぬくもりを感じながら、こくりとうなずく。この先どうなるかはわからないし考えたくもない。今はただ少しでも長くこの時間が続くことを願うだけだった。