「ねえねえ、きのうの怪盗ファントム見た?」
「やっぱり格好いいよねぇ」
学校に来ると、あちらでもこちらでもその話題で持ちきりだった。女子だけでなく男子も興奮ぎみに話している。怪盗といえば聞こえはいいがれっきとした犯罪者である。にもかかわらず非難めいた物言いはほとんどない。みな憧れや賞賛を向けたり、あるいは純粋に娯楽として楽しんでいるように見えた。
「橘くんもきのうの怪盗ファントム見た?」
「中継は見てないけど、朝刊でね」
教室では、大地のまわりに男女数名のクラスメイトが集まり楽しげに話をしていた。話題の中心はやはり怪盗ファントムだ。悠人は無言のままそっと自席に着き、前にいる大地たちの会話に聞き耳を立てながら、スクールバッグを開けて教科書やノートを取り出す。
「橘くんって、ああいう格好が似合いそうだよね」
「あっ、わたし衣装を用意するから着てみてよ」
女子二人がいきなりとんでもないことを言い出したが、大地に動じる様子はない。ニコニコしたまま「却下」と一蹴する。それでも彼女たちは引き下がろうとしなかった。
「着るくらいいいじゃない。絶対似合うから!」
「だからだよ」
大地はそう答え、不思議そうな顔をした女子たちにニッコリと笑いかけて言葉を継ぐ。
「似合いすぎてバレるだろう? 僕が怪盗ファントムだって」
一瞬の間のあと、はじけるようにどっと笑いが沸き起こった。誰も本気にしていない。やだもう、と女子二人はツボに入ったように笑い、男子も愉快そうに白い歯を見せている。
「おまえ調子に乗りすぎだっつーの」
「そっちこそ怪盗ファントムにうつつを抜かしてていいのか?」
「ん? いや、別にうつつを抜かすってほどじゃないけど……」
「もうすぐ試験だろう。中間ではだいぶ順位を落としてたよな」
「うわぁ、学年一位のおまえに言われるとこたえるわ」
大地が冗談めかして痛いところを突くと、男子は大袈裟にのけぞりながら応じる。二人は初等部からの友人で、そういう軽口を言い合える仲だ。女子たちも一緒になって笑っている。その様子を、悠人は後ろからひそかに覗いながら口を引きむすんだ。
あれから一年、悠人たちは泥棒から怪盗になっていた。
怪盗ファントム——仕立てのいい黒のスーツに黒のマントをなびかせながら、闇夜を舞うように優雅に飛び、奇術のように神出鬼没に現れ、紳士的な立ち居振る舞いで狙った絵画だけを鮮やかに奪い去っていく、何かと世間を騒がせている絵画専門の怪盗だ。
その怪盗ファントムを演じているのが大地と悠人である。二人で一人の怪盗になりきっているのだ。背格好が酷似しているからこそなせる業といえる。顔は似ていないが仮面をつけているので問題はない。神出鬼没といわれる動きもそういうごく単純なトリックなのだ。
どうしてこうなったのかはよくわからない。最初のうちは地味に絵画泥棒をしていたはずなのに、なぜか次第に人目を意識した派手なものへと変貌していった。極めつけが怪盗ファントムという名だ。どこかのマスコミが発端でそう呼ばれるようになったのだが、大地と剛三が気に入り、自ら進んで名乗るようになったのである。今では署名入りの予告状まで出す始末だ。
絵画泥棒の話を聞いたときはあれほど警戒していた大地も、今では積極的にこの仕事を楽しんでいた。ハンググライダーを使うようになったのも彼の提案だ。そして悠人もなんだかんだで楽しんでいる。彼と競い合うことはあっても、力を合わせて何かを成し遂げることは今までなかった。成功して喜びを分かち合えることがたまらなく嬉しい。彼との距離もますます縮まっていくような気がした。
大地を守るための楯にされるのではないかという当初の懸念は、もうすっかりなりをひそめている。今のところ不当な扱いを受けるどころか、大地と同等かそれ以上に大切にされているように感じる。もっとも、まだそれほどの危機に陥っていないだけかもしれないが——。
「何か言いたそうだな」
始業を告げるチャイムが鳴り、大地のまわりにいたクラスメイトたちが自席へ戻っていくと、彼はわずかに振り向いてニヤリと含みのある笑みを見せた。おそらく言いたいことはわかっているのだろう。悠人はムッとして視線をそらす。
「別に」
「あとでな」
大地はそう言うと、宥めるように悠人の頭をぽんとたたいて前に向きなおる。完全に拗ねた子供扱いだ。今日だけでなくこれまでも何度かこういうことはあった。悠人は恨めしげに彼の背中を睨むが、すこし嬉しいと思ってしまった自分自身が何よりも腹立たしかった。
「楠っ、彼女のお迎えが来たぞ」
放課後、扉付近にいたクラスメイトがからかうように声を上げた。
帰り支度をしていた悠人が振り返ると、由衣は扉から顔を覗かせてニコッと笑い、右手を胸元あたりに控えめに上げる。彼女と付き合っていることはクラスメイトもみんな知っているようだ。公言した覚えはないが、こうやって毎日のように一緒に帰っていれば誰でもわかるだろう。
別に禁止されているわけではないので交際自体を隠すつもりはない。それでも意味なくからかわれたり興味本位で詮索されたりするのは煩わしく、つい仏頂面になる。大地のように笑顔を見せながら飄々とかわすことなどできそうにない。
「じゃあな」
「ああ」
前席の大地が先に帰り支度を終えて立ち上がり、すれ違いぎわ由衣にもひとこと声を掛けながら、颯爽と教室を出て行く。今は他校の生徒と付き合っているので、校外で待ち合わせをしているのだろう。彼の姿が見えなくなるころ悠人も席を立った。
「待たせたな……行くか」
「ええ」
扉の脇にいた由衣に声を掛けると、わずかに向けられている好奇の視線を無視し、まだ騒がしい廊下をふたり並んで歩き出した。
偏差値の高い進学校にしてはめずらしく、由衣は美大志望だ。
そのため二年生の秋頃から美大向けの予備校に通うようになり、二人で過ごす時間は以前より減っていた。休日に会うことは多いが、平日はほとんどが途中まで一緒に帰るだけである。今日もいつもどおり帰るだけだと思っていた。しかし——。
「あのね、今日は予備校お休みなの」
校門を出るとすぐに、由衣は足を止めて遠慮がちにそう切り出した。振り向いた悠人をじっと見つめて言葉を継ぐ。
「だから久しぶりにうちに来ない?」
「……ああ」
悠人が頷くと、彼女は安堵したように小さく息をついて表情を緩め、膝丈のスカートをひらめかせながら歩き出す。その頬にはほのかに赤みがさしているように見えた。
「ごめんなさい、きのうは夜遅くまで大変だったのに来てもらって」
由衣は階下で淹れてきた紅茶を丸テーブルに置きながら、何気ない口調でそう言った。
しかし、悠人はきのうの夜に何をしていたかなど一言も話していない。それでもテレビの中継などを見て知った気になっているのだろう。そう、彼女は怪盗ファントムの正体を悠人だと思い込んでいるのだ。それは事実である。だからといって当然認めるわけにはいかない。うんざりして眉をしかめながら紅茶を口に運んだ。
「やっぱり疲れているの?」
「別に」
やっぱりという言葉からしても鎌を掛けているものと思われる。昨夜、怪盗としてあちこち飛びまわったから疲れたのだろうと。そんな単純なやり方に引っかかりはしないが鬱陶しい。しかしながら苛立ったところを見せたら負けだ。あくまで素知らぬふりをしなければならない。
「ね、これ見てくれる?」
由衣はふいに声をはずませ、小さめのスケッチブックを開いて差し出してきた。そこには鉛筆のみで濃淡をつけた人物の絵があった。描かれているのは悠人である。
「課題の息抜きに描いたの」
「……良く描きすぎだ」
「そのまま描いたつもりよ」
彼女は美大を目指すだけあってさすがに絵は上手い。人物のスケッチはどれも実物そっくりに描けている。けれど、なぜか悠人の絵だけはいつもすこし違うのだ。似ていないわけではないが、三割増しくらい端整になっている気がする。むず痒さに耐えきれなくなり一枚めくった。
「…………」
そこには、満月を背にして漆黒のマントをなびかせながら、躍動的に夜空を舞う怪盗ファントムが描かれていた。実物はいつも白い仮面をつけているはずなのに、この絵では仮面がない。そして露わになった素顔は悠人に似ていた。スケッチブックを持つ指先が冷たくなり、かすかに震え出す。
「僕は、怪盗ファントムじゃない」
「わかってる、誰にも言わないわ」
由衣は包み込むように優しく微笑む。
いつもどれだけ否定しても彼女は聞く耳を持たない。この現状は剛三にも話してあるが、証拠は何もないのでしらを切り通せを言われている。信じてもらえなくてもそうするしかないだろう。彼女にどうこうする気はなさそうだが、それでも半年にもわたってじわじわと追いつめられ、心はとうに疲弊していた。
「私は悠人さんの味方よ、何があっても」
「もう黙れ!」
頭の中で何かが切れた。
スケッチブックを放り投げ、勢いよく彼女の肩を掴んでその場に押し倒す。二人の足が丸テーブルにぶつかり紅茶がこぼれた。待って、とすこし慌てたように言う彼女に苛立ち、その小さな口を自分の口で食むようにふさぎ、折れそうに細い手首を力任せに押さえつけた。
何をやっているんだ——。
はぁと熱い息を吐きながら体を起こして彼女を見下ろすと、ようやく頭が冷えた。頭どころではなく背筋まで一気に凍りついた。自分のしでかしたことにおののき血の気が失せていく。
由衣は制服を着たまま前だけをはだけてぐったりとしていた。シャツのボタンは一部引きちぎられて周辺に飛び散っている。プリーツスカートはぐしゃぐしゃに捲れ上がり、下着は中途半端に脱がされている。まるで乱暴されたような状態だ。いや、事実乱暴されたのだ。追いつめられて理性を失くした悠人によって。
その惨状を見下ろしたまま呆然と座りこんでいると、彼女が虚ろに目を開き、ゆっくりと顔を動かしながら視線をさまよわせた。そして悠人と目が合うとふわっと笑みを浮かべる。その意味がわからず、悠人は反射的に恐怖を覚えてゾクリと身を竦ませた。
「由衣……その、すまない……」
「大丈夫」
彼女はそう答えながら、気怠げな手つきでスカートを直して制服の前を掻き寄せた。見るかぎり傷や痣などはなく怪我はしていないようだ。重そうによろよろと体を起こしてその場に座ると、臆することなく悠人を見つめて微笑みかける。
「嬉しかったの。悠人さんに求められるのは初めてだから」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
しかし、とあることに思い至ると微妙な面持ちで目を伏せる。確かに彼女に誘われない限り抱こうとしなかった。悠人の方から誘ったことなどただの一度もなかった。だからといってこんな強姦めいたことを嬉しいだなんて。もっともそれが本心かどうかもわからないが——。
「……制服、弁償する」
「じゃあ、シャツだけ」
彼女はそう言って肩をすくめた。
きっと気付いている。制服を弁償することで罪悪感を払拭しようとする悠人のずるさに。こんなことでしでかした過ちが許されるわけでもないのに。けれど、悠人のためにあえてそれを受け入れてくれたのだろう。悠人はいたたまれずただうなだれるしかなかった。
「おかえり、彼女の家に行っていたのか?」
「……遅くなって悪い」
橘の家に行くと、大地が紅茶を飲みながらにこやかに迎えてくれた。夕食の時間をすこし過ぎているが、食べずに待っていてくれたようだ。連絡もせずに遅れたのに責める素振りもない。
「ずいぶん疲れてるな」
「……まあな」
大地の正面に腰を下ろし、大きく息を吐き出しながら倒れ込むようにテーブルに伏せる。身も心もくたくただった。夕食の準備が整うまでの短い間だけでも休んでおきたいと思う。
「頑張りすぎなんじゃないか?」
大地は頬杖をつき、揶揄するような意味ありげな笑みを浮かべる。その表情で何を言っているのか理解した。ある意味では間違っていないが、それよりも精神的に疲弊した部分の方がはるかに大きい。
「人の気も知らないで……」
「相変わらず疑われてるのか?」
「否定はしているけどな」
論理的な理由があるのならまだ対処のしようもあるが、盲目的に信じ込まれているのでどうしようもない。いくら否定しても信じてもらえる可能性はほぼないだろう。
「つらいと思うけど否定し続けろよ」
「わかっている」
剛三にも言われているし、絶対に認めてはならないということは重々承知している。ただ、こんな状態がいつまで続くのかと思うと目の前が暗くなる。すでに半年近く続いてかなり神経をすり減らしているのだ。もう先刻のような過ちを犯さないよう気をつけるつもりだが、自信はない。
「おまえはいいよな、あんな軽口がたたけて」
「そのくらい余裕を持ってた方がいいんだよ」
「疑われてないからそんなことが言えるんだ」
「それはそうだな」
大地はふっと笑い、カチャリと小さな音を立ててティーカップを手にとった。そしてゆっくりと口をつけてからソーサに戻すと、テーブルに両腕を置き、突っ伏していた悠人を前屈みに覗きこんで言う。
「今夜、泊まっていくか?」
「えっ?」
悠人はテーブルからわずかに顔を上げる。すぐ近くに、にっこりと微笑む大地の顔があった。
「相当まいってるみたいだしさ」
「……どこで寝ようが変わらない」
彼の気遣いは嬉しいが、泊めてもらったところで問題が解決するわけでも気分が晴れるわけでもない。それならいつもの自分のベッドで寝た方がずっと落ち着くだろう。そう思いながら、溜息をついて再びテーブルに顔を伏せようとしたが——。
「添い寝つきでも?」
瞬間、はじかれたように体を起こした。その勢いに驚いたのか大地は目をぱちくりさせたが、視線が合うとふっと思わせぶりに目を細める。からかわれた——悠人は反射的にそう感じてそっと眉を寄せた。
「くだらない冗談はやめろ」
「いや、僕は本気だけど」
「…………」
表情からしても嘘をついているようには見えない。考えてみればコテージではいつも一緒に寝ているわけで、添い寝という言葉に惑わされてしまっただけで、彼にとってはたいしたことではないのかもしれない。元気のない飼い犬の頭をなでてやるようなものだろう。それでも——。
「断る」
悠人が無表情でそう答えると、大地は不満げに口をとがらせる。
「遠慮するなよ。こんなサービスめったにしないぞ」
「……今の僕はおまえを襲いかねない」
好きでもない由衣でさえ我を忘れて襲ってしまったのだ。大地と一晩も一緒にいたらどうなるかわからない。何かの拍子に理性が吹き飛んでしまうかもしれない。真剣にそう考えて言ったのに、大地はきょとんとしたかと思うとぷっと吹き出して大笑いした。
「冗談で言っているわけじゃないんだぞ」
「そうなったら全力で抵抗してやるよ」
大地は笑いのおさまらないままそう言うと、悠人の頭にぽんと手をのせる。またしてもこんな宥め方をされてムッとしたが、払いのけはせず、そのままゆっくりとテーブルに顔を伏せて目を閉じた。