東京ラビリンス

青い炎 - 第15話 嘘が上手だから

「悠人さん!」
 ほのかにあたたかい風が頬をかすめる、穏やかな昼下がり。
 大学の総合図書館の前で待っていた悠人のもとに、小さく手を振りながら美咲が駆け寄ってきた。紺色のブレザーにオレンジ色のネクタイ、膝上のプリーツスカート——かつて悠人も在籍した有栖川学園中等部の制服である。今日が入学式であることは彼女本人から聞いていたが、それにしても。
「……どうして制服なんだ?」
「悠人さんに早く見せたくて」
 美咲はニコッと笑うが、悠人が難しい顔をしているのを見ると表情を曇らせる。
「いけなかった?」
「ここでは目立つな」
 好奇の目で見られるだけなら別に構わないが、変に噂になったりしたら大地の耳にも入るかもしれない。美咲のためにも、悠人自身のためにも、彼に知られることだけは避けなければならないのに。
「ごめんなさい……」
「いや、似合っている」
 そう告げると、しゅんとしていた彼女がすこし驚いたように顔を上げ、そしてほんのりと頬を染めてはにかんだ。

 いつものように総合図書館で借りていた本を返却し、新たに本を借りる。
 美咲の知識レベルはすでに悠人を大きく超えていた。ときどき物理学や生物学について彼女と話をするが、もうついていけなくなっている。最近では書籍だけでなく論文も読みあさっているようだ。そして知識を身につけるだけでなく、柔軟に思考をめぐらせ仮説を立てたりしているらしい。
 美咲はまぎれもなく天才だ。
 しかし、それを知っているのは悠人ただひとりだけである。彼女を何よりも大切にしている大地ですら知らない。もちろん底知れぬ才能には純粋に興味を抱いているが、自分だけが彼女の才能を伸ばすことに協力し、成長を見守っている——そのことに少なからぬ優越感を覚えているのも事実だった。
 大地は大学生になってから何かと忙しくしている。橘の後継者としての教育を受けているのだという。その一環で塾講師のアルバイトまでやらされている。悠人はそれに合わせて美咲と総合図書館へ行く時間を決めていた。だから、同じ大学にもかかわらず知られずにすんでいるのである。

「あれ、楠?」
 美咲と総合図書館から出たところで男子二人組に声をかけられた。どちらも講義や実験などでよく一緒になる同期生だ。悠人からすれば名前も覚えていないくらいの関係だが、向こうはまるで友人のように気安く近づいてくる。美咲は不安そうに悠人の袖を掴んで隠れようとするが、二人の目はしっかりと彼女を捉えていた。
「その子、どうしたんだ?」
「知り合いの妹で、大学を案内している」
「へぇ、うちの大学を志望しているのか」
「今のところは」
 悠人は嘘を織り交ぜながら応じる。
 その間も、美咲は二人の不躾な視線から身を隠すようにしていた。悠人の袖を掴む手にぎゅっと力がこもる。その様子がかえって興味を惹いてしまったのだろう。今度はもうひとりの男子が面白がるように言ってきた。
「とか言って、実はカノジョだったりするんじゃないの?」
「だとしたら、制服のままこんなところに連れてこない」
「まあ、それもそうだよな」
 軽く笑いながら同調する彼を見て、悠人は溜息を落とした。
「急いでいるからもう行くぞ」
「ああ、じゃあまた講義で」
 二人はそう挨拶をしてあっさりと総合図書館の方へ向かう。こんなところに制服姿の少女がいることを奇妙に思っただけで、本気で悠人との仲を疑っていたわけでも、ましてそのことを問い詰めたかったわけでもないのだろう。あの二人が馴れ馴れしいのはいつものことなのだ。しかし——。
「悠人さん……大丈夫、なの?」
「大地の耳に入る可能性があるな」
 当然だが、彼ら二人は大地とも一応の面識があるし、悠人と大地が親しいことも知っている。告げ口のような真似はしないだろうが、何かの拍子にこの話題が出ないとも限らない。
「どうしよう、ごめんなさい……」
「美咲のせいじゃない」
 いまにも泣き出しそうな彼女に優しくそう言い、ぽんと頭を叩く。
「そうなったら、どうにかごまかしてみるよ」
「うん……悠人さんなら大丈夫よね。嘘が上手だから」
 彼女は不安をにじませつつ曖昧に微笑んだ。
 嘘が上手と言われるとあまり愉快な気はしないが、彼女からすればそれが事実なのだろう。二人だけの秘密を守るため、これまでにも何度か彼女の前で嘘をついているのだ。もちろん今回もうまく嘘をついて取り繕うつもりでいる。必要に迫られて嘘をつくことにはもう慣れてしまった。けれど。
「あいつほどじゃないさ」
「あいつ?」
 思ったことが声に出ていた。美咲が不思議そうに聞き返してきたが、答えられるはずがない。
「どこか行きたいところはあるか? 帰りに行こう」
「えっ?」
 急に話題を変えると、彼女はきょとんとして目を瞬かせた。
 唐突だがとっさの思いつきというわけではない。今日はいつもより早めの待ち合わせなので、美咲の中学入学祝いも兼ねて、帰りにどこかへ寄れたらと考えていたのだ。いままでは時間の都合もあり、ほとんど図書館だけにしか連れて行っていない。せいぜい何度か喫茶店に寄ったくらいである。
「……どこでもいいの?」
「遠くは難しいけどな」
「じゃあ、海が見たい」
「えっ?」
 今度は悠人が目を見開いた。まさか春先に海を見たがるなど思いもしなかった。無意識に眉を寄せつつどこに行こうか思案をめぐらせる。その反応を彼女はおずおずと上目遣いで窺い、不安そうに顔を曇らせた。

 悩んだあげく、タクシーをつかまえて向かった先は埠頭の公園だった。目につくのは簡素なコンクリートの通路と満開の桜くらいである。その桜もきれいではあるが一本だけしか見当たらない。伸び放題の草花を見ても、この公園があまり手入れされていないことは明白だ。
 しかし公園を見るためにここへ来たわけではない。目的はその先である。桜の花びらが緩やかに舞い落ちる中を進み、中央の通路を抜けると、開けた視界一面にキラキラと銀色に光る海が広がった。
「わあ……!」
 美咲はパアッと顔をかがやかせて駆け出した。制服のスカートがひらめいて白い腿がちらちらと覗き、黒髪が潮風にさらさらとなびく。正面の柵にたどり着くと、両手をかけて身を乗り出すように海原を眺め、体全体を使いながら大きく息を吸い込んだ。
「これが海の匂いなんだ……潮の香り? 磯の香り?」
「すまない。あまりきれいな海じゃなくて」
 すぐ下には空き缶やゴミが浮いていたり、木の枝や木の葉がたまっていたりと、お世辞にもきれいとは言いがたい。遠くには工場も見える。ゴミのせいか工場のせいかはわからないが、すこし異臭も混じっていた。
「いいの、海が見られただけで嬉しい」
「そんなに海が好きだとは知らなかった」
「ん、好きっていうか……」
 美咲は曖昧に口ごもり、目を伏せる。
「いままで実物を見たことがなかったから」
「え、初めて?」
 思わず聞き返すと、彼女は恥ずかしそうにこくりと頷いた。
 そういえば、彼女は奥多摩の方に住んでいたと聞いている。生活圏内に海の見えるところはないだろう。橘の屋敷の徒歩圏内にもやはり海の見えるところはないし、瑞穂や大地と出かけることはあっても街中ばかりだ。
「大地に頼めば連れて行ってもらえたと思うが」
「見たいって思ってたことも忘れていたの」
 大地は頼まれれば何を差し置いても連れて行っただろう。けれどもう遅い。彼女が初めて海を目にして感動した表情も、初めて海の匂いを感じてはしゃいでいる姿も、見られたのは自分だけである。そんなことにまで仄暗い愉悦を感じるなどどうかしていると思うが、どうしようもない。
「美咲」
 柵に片腕をのせて海に目を落としながら、ぽつりと呼びかける。
「橘の養子になって半年以上になるが……どうだ?」
「うん、初めて家族ができたみたいですごく嬉しい」
 美咲はふわりと笑って言う。
 母親は物心ついたころには亡くなっていて、きょうだいもなく、父親はいたがあまり構ってもらえなかった——そんな環境で育った彼女の素直な気持ちなのだろう。橘の家庭環境もとても普通とは言いがたいが、それでも美咲には家族として愛情をそそいでいるように見える。ただ。
「大地は兄として、その……何かおかしなことはないか?」
「えっ? おかしなことなんてないけど。すごく優しいし」
 どうやら兄としての立場を超えるようなことはしていないらしく、ほっとする。さすがに小学生には手を出さないだろうと信じたい気持ちはあるが、美咲を見つめるまなざしがときどき危ういくらい熱を帯びており、もしかしたらと心配になっていたのだ。
「そうか……橘の養子になって幸せなんだな?」
「うん、おかげで悠人さんにも会えたもの」
 美咲は顔をほころばせた。
 悠人も美咲と出会えたことには感謝したいと思っている。けれど、彼女にとっては良かったのかどうかまだわからない。彼女本人は知らないが大地の妻になることを望まれているのだ。この話をどう進めるつもりか想像もつかないだけに怖い。もし、おかしなことを画策しているとしたら——。
「悠人さん?」
 ふいに思考の海から引き戻されて反射的に振り向くと、そこには彼女の顔があった。いまにも息が触れ合いそうなほど近い距離に。悠人が目を見開いて息を飲むと同時に、彼女はぶわっと一気に顔を紅潮させ、はじかれたように後ろにのけぞり倒れかける。しかし、その背中に腕をまわしてすんでのところで抱き留めた。
 ザザ、と穏やかなさざ波の音がふたりを包む。
「気をつけろ」
「うん……」
 美咲は落ちた鞄を肩にかけて体勢を立て直すと、ほんのりと頬を赤らめたまま後ずさろうとしたが、悠人は彼女の背中にまわした手を離さなかった。戸惑いがちに小首を傾げる彼女をじっと見つめ、口を開く。
「僕は、美咲の味方だ」
 今の悠人に言えるのはそれしかない。だが、それだけでも伝えておきたかった。
 いつか意に沿わない結婚話を押しつけられ、家族以外の誰かを頼りたくなったときに、この言葉を思い出してくれればいい。悠人にどこまでできるかわからないが、それでも可能なかぎりのことはするつもりでいる。たとえ大地や剛三と敵対することになったとしても。
 けれど大地の思惑を知ったうえで黙っていたのだから、彼女からすれば悠人も共犯になるのかもしれない。味方だ、など白々しい嘘としか思えないかもしれない。
 真意がわからないまま困惑ぎみにおずおずと頷く彼女を、悠人は真顔で見つめる。この少女はひどくやっかいな男に運命を握られてしまった。守りたいと思うのは不憫だからか、それとも——小さな背中にまわしていた手にほのかなぬくもりを感じ、無意識に力がこもった。