東京ラビリンス

青い炎 - 第16話 いい夢を見ていたみたいだな

「悠人さん……」
 いまにも消え入りそうな、かぼそく不安げな声。
 悠人は遠慮がちにそっと身を寄せてきた美咲を、優しく包み込むように抱きしめる。腕に感じる少女の体は驚くほど小さくてやわらくてあたたかくて、まるで小動物のようだと思う。力をこめるだけで簡単に壊れてしまいそうだった。
「美咲は僕が守る」
「……本当に?」
「ああ、誓おう」
 真剣にそう答えると、彼女は腕の中でもぞりと身じろぎし、潤んだ黒目がちの瞳で悠人を見上げた。そして、そのままゆっくりと目を閉じて踵を上げる。
「美咲……」
 悠人の心臓は壊れそうなほど激しく打っていた。ドクドクと体中に血液がめぐっていくのがわかる。鼓動がまるで直に鼓膜に響いているかのようで、まわりの音はもう何も耳に届かない。体はみるみるうちに熱を帯びてきた。
 ごくり、と出ていない唾を無理やり飲み込んで、ほんのり桜色に染まった頬にそっと触れる。そのすべらかさとやわらかさを手のひらにに感じながら、息を詰めてゆっくりと顔を近づけていく。彼女の微かに濡れた息が唇にかかった、そのとき。

 ピピピピッ、ピピピピッ——。
 悠人は手探りでベッドボードの目覚まし時計を止めて、溜息をついた。
 またしても似たような夢を見てしまった。これで三度目だろうか。今回は未遂だったが、未遂で終わらなかったこともある。それでも今回の動悸がいちばん激しいかもしれない。ゆっくりと体を起こし、額を押さえながら意識的に深く呼吸をする。
「おはよう」
 穏やかだがよく通る、聞き慣れた声。
 ビクリとはじかれたように振り向くと、すぐにでも外出できるくらいに身支度を整えた大地が、ゆったりと椅子に腰掛けてこちらを見ていた。そのきれいな顔に思わせぶりな笑みをたたえながら。
「おまえ、なんでここに……」
「僕の家に僕がいるのは当然だろう?」
「……就寝中に忍び込むのは悪趣味だ」
 ここは、大地が言ったとおり橘の屋敷である。
 大学生になってからは、たびたびこの客室に泊めてもらうようになっていた。着替えなどの私物もいくつか置いてあり、実質的に悠人の部屋といっても過言ではない。だが橘の家である以上、勝手に入るなと強く訴えることには抵抗がある。恨めしげに横目で睨むが、大地はかえって面白がるかのようにくすりと笑った。
「悪いな、悠人の寝顔が見たくてさ」
「ふざけたことを言うな」
 そんな発言をいちいち真に受けて動揺するほど子供ではない。その科白も、無断侵入も、どうせ悠人の反応を楽しむための悪ふざけでしかないのだろう。最初はさすがに驚いたが、冷静になるにつれて馬鹿らしくなり深く溜息をついた。しかし。
「随分、いい夢を見ていたみたいだな」
 それまでとは別人のような感情のない声が降ってきた。怪訝に顔を上げると、いつのまにか椅子から立ち上がっていた大地が、無表情でゆらりと覗き込むように身を屈めてきた。不穏なものを感じて眉をひそめた瞬間、彼の片手が驚くほどの勢いで布団に突っ込まれ、狙い定めたように悠人の股間に押し当てられた。
「?!!」
 あまりのことに声も出なかった。
 男性にしては繊細な指をそこに感じて反射的にカッと熱くなる。もともと反応していたことも、さらに反応したことも知られてしまっただろう。何も考えられないまま固まっていると、彼は片膝をベッドにつき、体ごとこちらに向けてニッと挑発的な笑みを浮かべた。まるで獲物を狙う捕食者のような鋭い目つきで。悠人の全身にゾクリと電流のようなものが駆けめぐった。
「なあ、抜いてやろうか?」
「はっ?!」
 スウェットの上から、彼の手があやしげにゆるゆると動き出す。
「っ……!」
 いったい何が起こっているのか思考がついていかない。そもそも考えている余裕がない。奥歯を食いしばりながらひたすら耐えるしかなかった。限界に近づくにつれてうっすらと汗がにじんでくる。
「どうする?」
 何を問われているかさえ、わからない。
 そんな悠人を見つめながら、大地はもう一方の手をベッドについて身を乗り出し、呼吸が触れ合うほどの距離まで顔を近づけると、自らの唇をゆっくりと舐めてみせた。淫靡に濡れたその唇がゆるやかに弧を描き、そして——。
「何なら咥えてやるけど」
「やめろ!!」
 耳朶に濡れた吐息を感じた瞬間、すさまじい勢いで彼の手首を掴んで引きはがし、そのままベッドから降りて壁に叩きつけ、ぜいぜいと息を荒くしながら彼を睨みつけた。白い手首を押しつける手にグッと力をこめる。
「何の真似だ、おまえ!」
「喜んでくれるかと思ったのに」
 平然ととぼけた答えを返してくる彼の態度に、悠人はますますカッとなる。
「そんな冗談を誰が真に受ける?」
「僕はあくまで本気だったけどね」
「…………」
 からかっているのか、単に嫌がらせなのか、本当に本気だったのか、何がなんだかわからなくなってきた。眉を寄せてうつむいていると、大地は手首を振りほどいて悠人の脇をすり抜けていく。
「おまえは僕だけを見てればいいんだよ」
 そう言いながら椅子のそばに置いてあった鞄を手にとり、背を向けたまま扉の方へ進んでいった。ドアノブに手をかけたところで動きを止める。
「所用で銀行に寄るから先に行く」
「……ああ、わかった」
 今日の一限目は休講なのに支度が早いとは思ったが、そういうことかと納得した。それを伝えるためにこの部屋に来たのかもしれない。
「なあ、おまえわかってるか?」
 大地はドアノブに手をかけたまま振り向いてそう尋ねた。けれど何について言っているのか悠人にはわからない。怪訝な顔をすると、彼はふっとやわらかく笑みを浮かべて答えを口にする。
「今日は僕のハタチの誕生日だ」
 忘れていたわけではないが、昔から祝わなくていいと言われているのでそうしている。これまで誕生日プレゼントは一度も贈っていないし、祝いの言葉でさえほとんど口にしていない。催促されて「おめでとう」と言ったのがせいぜいだ。
「祝ってほしいのか?」
「そうじゃないよ」
 大地は軽く否定すると、すっと目を細めて意味ありげな視線を流しながら言う。
「怪盗ファントムはもう引退ってこと」
 悠人はハッとした。
 怪盗ファントムは大地が二十歳になるまでと言われていたのだ。もっとも、大地の後継者教育が忙しくなった影響か、ここしばらくはほとんど開店休業状態になっていた。前回の活動は半年ほど前である。そのときはこれで最後になるとは聞いていなかったし、いきなり引退などと言われてもなかなか実感が持てない。
「父さんにも確認したから」
「そうか……」
 思いのほか声が沈んでしまったことを自覚する。
 大地も気付いたのかくすりと笑った。
「お疲れさま」
「おまえもな」
 悠人は冷静に返し、大地が部屋を出て行くのを壁際に立ったまま見送った。
 ともに協力し合い、危機を切り抜け、成功を喜び合う——あの経験はもうできなくなるのだなと吐息を落とす。危険な仕事から解き放たれたことには安堵するが、それと引き替えに大地との絆がひとつ断ち切られたのだ。胸がじりじりと燻るように感じて落ち着かなかった。

 夕方、今日の講義がすべて終わると、悠人は大地とともに校舎を出た。
 数時間前までは晴れていたはずなのに、いつのまにか鉛色の雲が垂れ込めていた。いまにも雨が降り出しそうな空模様である。折りたたみ傘は持っているが、せめてあと数時間は降らないでほしいと願う。今日は美咲と総合図書館に行く日なのだ。
「じゃあな」
「ああ」
 大地はすぐに塾講師のアルバイトに向かわなければならないため、いつもここで慌ただしく別れている。だが、今日は背を向けようとしてふと思い出したように付言した。
「今夜は誕生日パーティをやるから」
「えっ……美咲が言い出したのか?」
「まあね」
 大地は肩をすくめた。
 彼の誕生日パーティなどいままで一度もなかったので驚いたが、考えれてみれば簡単なことだ。お兄ちゃんの誕生日をお祝いしたい、パーティを開きたい、などと美咲に言われたら断れはしないだろう。美咲の誕生日には身内のみでささやかなパーティを開いているので、大地の誕生日にも同じようにしたいと考えても不思議ではない。
「もう成人なのにいまさら誕生日パーティなんてどうかと思うけどさ。まあ身内だけだから。おまえはプレゼントとか何も用意しなくていいからな」
 そう言い置き、大地は軽く手を上げて走り去っていった。

 悠人は総合図書館前で美咲を待ちながら、今朝の出来事について考えた。
 どうして大地があんなとんでもない行動に出たのか、あのときは考える余裕もなかったが、あらためて最初から順に追っていくと何となく見えてくる。いい夢を見ていたみたいだな、などとわざわざ言ってきたことから推察すると、悠人の夢について何らかの情報を得ていたのだろう。つまり悠人が寝言で美咲の名前を口にした可能性が高い。それを聞いて横恋慕していると思い込んだのではないか、と。
 美咲のことをどう思っているかは悠人自身よくわかっていない。守ってやりたいと思うし、手助けしてやりたいと思うし、幸せになってほしいとも思っている。彼女が喜んでいると満たされた気持ちになる。一緒にいられるだけで嬉しいと感じる。触れたいという衝動に駆られることもある。ただ、それが恋愛感情といえるのかどうかは判然としない。
 どちらにせよ、悠人の中で美咲の存在が大きくなっていることは間違いない。だからといって大地への執着が薄れたわけではない。方向性は違うもののどちらも失いたくない特別な存在であり、そして邪魔な存在でもある。ひどく矛盾をはらんだこの感情に気付きながらも抗うことができず、ただただ雁字搦めになっていた。

「悠人さん」
 色彩のない薄曇りの中、美咲がはずんだ声で呼びかけながら駆けてきた。膝上丈のワンピースをひらめかせて笑顔を見せる。
 味方だと告げたあの日から、彼女はいっそう心を許してくれるようになっていた。まるで兄妹か友人のような距離感で接してくる。もっともこういう親しげな態度は二人きりのとき限定で、大地の前ではいまだにほとんど会話もしていない。互いに彼には知られたくないので暗黙の了解である。
 いつものように総合図書館で借りていた本を返却し、新たに借りる。これだけ毎週のように通いつめていても、興味のある本はまだまだ尽きないようだ。いつもどれを借りようかと嬉しそうに悩んでいる。きっと、悠人がこの大学に在籍する限りは通い続けることになるだろう。
「あのね、今日お兄ちゃんの誕生日パーティをするの」
 ふたり並んで駅へ向かっている途中で、美咲がそう切り出した。
「ああ、さっき大地からも聞いた」
「悠人さんも来てくれるんでしょう?」
「一応な」
 大地に来いと言われたら断ることなどできないし、断る理由もない。
「美咲は何かプレゼントを考えているのか?」
「櫻井さんに教えてもらってケーキを作るの」
 彼女はふわりと顔をほころばせる。
 執事の櫻井はお菓子作りが趣味だと聞いているので、ケーキ作りを教わるには最適な人物ではあるが、まさか人見知りの彼女が頼むとは思わなかった。いまだに彼とは話しかけられれば答える程度で、打ち解けているようには見えないのに。そこまで頑張るのもすべて『お兄ちゃん』のためなのだろう。
「悠人さんは? プレゼントもう決めたの?」
「僕は用意しなくていいと言われている」
「え、どうして?」
 美咲はきょとんとして、不思議そうに隣の悠人を見上げた。
「昔から互いにそうしてきたからな」
「じゃあ、私も用意しない方がいいのかな」
「いや、美咲はプレゼントすればいい」
 用意しなくていいというのはあくまで悠人に対しての話である。美咲を困らせないよう催促はしていないのかもしれないが、ひそかに期待はしているはずだ。ここで下手なことを言ってプレゼントをやめさせてしまったら、本気で絶交されかねない。
「用意しなくていいなんて言われてないんだろう?」
「うん……そうだよね。せっかく準備もしたんだし」
 美咲は気を取り直したように笑顔を見せて頷いた。ケーキ作りは初めてだけど化学の実験みたいで面白そう、などと無邪気にはしゃぐ。そのいかにも彼女らしい発言を微笑ましく思いつつ、同時に心配にもなるが、執事の櫻井がそばについているはずなので大丈夫だろう。
 鉛色の空から、ぽつり、ぽつりと雨が落ち始めた。
 悠人ひとりならこのくらい気にしないが、女の子である美咲を濡らすわけにはいかない。木陰に入り、鞄から折りたたみ傘を取り出して彼女に差し掛ける。だがその数秒の間に、さきほどまでの明るさが嘘のように沈鬱な表情になっていた。
「どうした?」
「うん……こういうのも最初で最後かなと思って」
「誕生日パーティが? ケーキを作るのが?」
 悠人が尋ねると、美咲は目を伏せたまま曖昧に微笑んだ。
「お兄ちゃんね、結婚するみたいなの」
「……いや、まだしないと思うが」
「婚約者がいるって話していたもの」
 いったいどこでどう聞いてきたのかは知らないが、大地本人が言っていたのなら、その婚約者というのは間違いなく美咲のことだ。大地はいまでも美咲と結婚するつもりでいるし、美咲の意思を尊重するという条件つきだが、剛三もそれを容認している。しかし、そのことを悠人が勝手に教えるわけにはいかない。
「お嫁さんが来たら、きっと今みたいに構ってくれなくなるし、家にも何となく居づらくなると思う。せっかく家族になれて嬉しかったのに……本当は喜ばないといけないんだってわかってる。おめでたいことなのにこんなふうに思うなんて、妹失格だよね」
 その声に自嘲がにじみ、恥じ入るように顔をうつむける。
 初めて与えてもらった家族のぬくもりを失いたくない——彼女のそういう気持ちは何となくだが理解できる。悠人が大地に抱いている気持ちと根本は同じだろう。孤独な心に入り込んでくる彼の存在はあまりにも鮮烈で、まるで麻薬のようだ。いつのまにか失うことなど考えられなくなっている。
 もしかしたら大地は初めからこれを狙っていたのかもしれない。身寄りのない幼い少女ひとりを自分に依存させるなど、彼からすれば造作もないことだ。この状況で大地との結婚話を持ち出され、剛三も瑞穂も賛成しているとなれば受け入れざるを得ない。いや、もし他に逃げ道があるとしたら——。
「居づらくなったら僕のところに来い」
 傘を差し掛けたまま静かにそう告げると、美咲は驚いたように顔を上げた。
「でも悠人さんの家なんて行ったこともないし、ご家族だって……」
「どこかに部屋でも借りて、二人で新しく家族になればいい」
 兄にでも、父にでも、夫にでも、君さえ望んでくれるのならば。
 差し掛けた紺色の傘にぽつぽつと絶え間なく雨粒が落ちて、喧噪が掻き消されていく。すぐそばを行き来する人々の姿も目に入らず、まるで時間が止まったかのように、小さな唇を半開きにした美咲と見つめ合った。手の甲に打ちつけられる雨の冷たさを感じながら——。