東京ラビリンス

青い炎 - 第19話 何もない

「希望を捨てたわけではないが、覚悟はしておかねばならない」
 眉根を寄せながら受話器を置いた剛三が、重々しく言う。
 沈没の一報を受けてから丸一日が過ぎているが、捜索に進展はない。いまだに一人の生存者も見つかっていないという。船は爆破でもされたかのように真っ二つに割れ、人も焼け焦げたりバラバラになっていたりと、現場はぞっとするほどの惨状らしい。
 剛三も独自で捜索できないかと懸命に手を尽くしたが、小笠原はあまりに遠く、そこまで飛べるヘリコプターが手配できなかった。いまは救助隊に任せるしかない。しかし沈没の原因がまだ特定できていないため、彼らも不用意には近づけないのだ。
 その絶望的とも思える話に、悠人はソファに腰を下ろしたまま顔をこわばらせた。いてもたってもいられない気持ちではあるが、一介の学生である悠人にはどうすることもできない。いや、橘財閥の後継者である剛三もそれは同じなのだろう。大きな執務机で祈るように両手を組み合わせながら、ただじっと電話を待っていた。
 二人とも一睡もしていない。食事は執事の櫻井がこの執務室に運んでくれているが、あまり食欲がないし食事をする気分でもない。それでも食べなければ体がもたないと剛三に諭されて、どうにか残さず食べているといった状況だ。
 瑞穂も朝方までは悠人の隣で一緒に無事を祈っていた。ただ食事が喉を通らないくらい憔悴してしまい、ついにはふらりと倒れ、いまは主治医の診察を受けて寝室で安静にしている。もともとの貧血に心労と過労が重なったのだろうという診断だった。

「悠人、そろそろ休んだ方がいい。ひどい顔をしている」
 剛三が執務机からちらりと視線をよこしてそう言うが、彼自身も目の下の隈がだいぶ濃くなっており、顔つきからも顔色からもかなりの疲労が窺える。それでも限界まで休みはしないだろう。悠人も限界までここを離れたくない。疲れを感じさせないよう表情を引き締めて訴える。
「ここにいさせてください。ベッドに入ってもどうせ眠れません」
「……倒れるなよ」
 剛三はじとりと横目で睨みながら声を低めて言う。不満に思いながらも気持ちを汲んでくれたに違いない。せめて倒れて迷惑を掛けることのないよう気をつけなければ。悠人はすっと背筋を伸ばして頷いた。

 バァン——!
 突然、ノックもなしに壊れんばかりの勢いで扉が開き、執事の櫻井が息をきらせながら飛び込んできた。髪は大きく乱れ、額には汗が浮かんでいる。いつも礼儀正しい彼にはありえない無作法だが、だからこそよほどのことがあったのだと察し、剛三も悠人も顔面蒼白で息を飲んだ。
「み……美咲さんから電話がありました!」
「何っ?!」
 剛三ははじかれたように執務机を叩きつけて立ち上がり、大きく前のめりになる。
「美咲さんも大地さんも無事だと……地元の人に助けられて、手当てを受けているとおっしゃっていました。この番号に掛け直してほしいそうです」
 櫻井が肩で息をしながら無造作にちぎられたメモ用紙を差し出すと、剛三はひったくるように奪い取った。メモに目を走らせ、その場に立ったまま受話器を掴み上げてダイヤルを回す。悠人もあわてて執務机の彼のもとに駆けていった。

 大地も美咲も命に別状はなかった。
 フェリーから投げ出された二人は、現場から遠くないところを走っていたクルーザーに拾われたそうだ。もっともそのクルーザーも何度か大波に呑み込まれそうになったらしい。無事に助かったのは運が良かったからといっても過言ではない。
 その後、二人は島で医師の手当てを受けて泥のように眠っていたが、先に目を覚ました美咲がようやく家族のことに思い至り、診療所の電話を借りて橘に連絡してきたという次第だ。剛三はすぐさま各方面に手配し、二人ともその日のうちにヘリコプターで本土に搬送されて入院することになった。
 精密検査の結果、美咲は軽い擦り傷と打撲傷くらいだったが、大地は何針か縫うほどの裂傷を数箇所に負い、左腕にはひびまで入っていた。傷のせいか発熱もしていたらしい。それでも、後遺症の残るような怪我がなかったことは、不幸中の幸いといえる。
 生存者はいまのところ大地と美咲の二人だけである。収容されて身元が判明した遺体はまだまだ少ないが、もうあれから何日も経過しており、生存者の見つかる可能性はほぼゼロといっていいだろう。六百人ほど乗っていたので大惨事だ。
 沈没の原因が何だったのかは依然として解明されていない。フェリーの中央部は凄まじい高熱で焼かれ、吹き飛ばされ、木っ端微塵になっているらしい。船の故障や座礁でここまでなるとは考えられない。落雷にもそこまでの威力はない。魚雷などで攻撃された可能性も論じられているが、証拠は何も見つかっていない。
 この件に関して、入院中の大地と美咲のところへ警察が何度か事情聴取に訪れている。目撃者がほかにいないので仕方がないのかもしれないが、傷も癒えないうちに根掘り葉掘り聞くなど配慮がなさすぎる。生死を分ける壮絶な事態だっただけに思い出すのもつらいはずだ。
 意外にも美咲はいつもと変わらない様子を見せているが、大地は日を追うごとに暗く沈んでいった。いつもの自信に満ちあふれた彼に戻ってほしい。また屈託のない笑顔を見せてほしい。腹立たしいほど挑発的に振りまわしてほしい。そう願いながら、入院している彼のところへ毎日通っているのだが——。

「また来たのか」
 個室のベッドで上体を起こして窓の外を眺めていた大地は、生気のないまなざしで悠人を一瞥してそう言うと、ふいと視線を戻す。そこに広がるのは絵に描いたような鮮やかな青空、強烈な陽射し、そしてまばゆいくらいに白い入道雲——消毒液の匂いがただよう陰気な病室とは対極ともいえる風景だった。
 彼の頭には白い包帯が幾重にも巻かれ、左腕にはギプスがはめられている。その他にもあちこちがガーゼや包帯で覆われていて、見るからに痛々しい。それでも顔に傷がないだけ良かったのかもしれない。大事故に遭ったとは思えないくらいきれいなままだ。ただ、その横顔に浮かんだ表情はひどく虚ろである。
「おまえに同情されるとはな」
「同情じゃない」
 ぽつりと落とされた彼の言葉に、ムッとして言い返す。
 心配で、不安で、毎日そばにいて様子を覗わないと気が済まないだけだ。素肌に触れて存在していることを認識したい、体温を感じて生きていることを確信したい。そんなことさえ思ってしまうくらいに。
「なぁ、大地」
 一歩、二歩、彼のいるベッドに足を進める。
「僕とすこし話をしてくれないか」
「何も話すつもりはない」
「事故のことじゃなくていいんだ」
「話さないって言ってるだろう」
 大地は目を向けることもなく淡々と撥ねつけた。悠人はわずかに眉を寄せる。
「おまえのことが知りたいんだ」
「おまえにはわからないよ、何も」
「話してくれなければわからない」
「話したってわからないさ」
「…………」
 大地の心は固く閉ざされたきり開く気配すらない。ただ、美咲とは普通に話をしているようだと聞いている。彼に寄り添えるのは、ともにフェリー事故に遭った彼女だけなのかもしれない。そう考えるとじりじりと胸が焦がされていくように感じる。
 だからといって簡単にあきらめるつもりはない。悠人にも何かしらできることはあると信じたい。奥歯を噛みしめてひそかに気合いを入れると、冷静な仮面の下に泣きたい気持ちを押し隠し、手に提げていた紙袋を軽く掲げてみせる。
「まだしばらくは入院だと聞いたから、おまえの好きな紅茶を持ってきた」
 ブランドも銘柄も執事の櫻井に聞いたので間違いないはずだ。ティーポットやティーカップも高級品ではないが買ってきた。お茶請けにクッキーやマフィンなどの焼き菓子も用意してある。
「淹れてくるから、一緒に飲もう」
「今はいい」
 冷ややかに一蹴され、思わず表情を硬くして手提げ袋を下ろす。
「そうか、気が向いたら飲んでくれ……美咲とでも」
 どうにか平静をよそおってそう告げると、ティーポット、ティーカップ、茶葉などひとつずつ取り出して白い戸棚にしまい、空箱だけになった紙袋をひとまず隣に立てかけるように置いた。そしてベッド脇に足を進め、置かれていた椅子に無言で腰を下ろし、人形のような横顔をまっすぐに見つめる。
「大地」
 名前を呼んだが、彼は窓の外を見たままぴくりともしない。それでも聞こえてはいるだろうと言葉を継ぐ。
「何か、僕にできることはないか」
「ないよ……何もない」
 大地は一瞥もくれずに拒絶した。
 予想していたとおりの反応なので驚きはない。だが胸が押しつぶされそうなくらい苦しい。飼い犬としてでもおもちゃとしてでもいいから、必要だと言ってほしかった——そんなみっともない願望を心に秘めて口をひらく。
「それでもおまえのそばにいたい」
「…………」
「できることはなくてもまた来る」
「好きにしろ」
 大地は基本的に家族以外の面会は断っているそうだが、悠人が来ても断らない。来るなとも言わない。彼自身自覚していないのかもしれないが、心のどこかで悠人を必要としているのではないか。
 もしおまえが望んでくれるなら、僕は——。
 熱に浮かされたように見つめながら手を伸ばしかけて、途中で我にかえった。いったい何をやっているのだろうと溜息をつき、背中を丸めながら膝に腕をついてうなだれる。そのとき消毒液の匂いの中からわずかに大地の匂いを感じて、そっと目を閉じた。