「はぁ、ようやく終わったな」
夏季休業が明けて始まった学期末試験は、これで最後である。
解答用紙が後ろから回収されていく中、大地は握った右手を突き上げて大きく伸びをしながら、七人掛けの長机でひとつ席を空けて座っている悠人に横目を流し、ふっと微笑んだ。悠人もつられて表情を緩めると筆記具を片付け始める。
大地は一か月近い入院のあと、夏季休業が終わるまで二週間ほど自宅で療養した。
左腕にはまだギプスがはめられているが、そのほかは傷痕が残っている程度でもうほとんど治っている。心配していた精神状態もすっかり元通りになった。あれほど拒絶していた悠人とも今では普通に話をしている。
もっとも、彼が立ち直ったのは悠人の献身によるものではない。入院中は一日も欠かさず見舞いに行っていたが、結局、最後まで心を開いてはくれなかった。退院後は自室に来るなと言い渡されてしまい、しばらくは顔を見ることさえかなわなかった。そのあいだに美咲が寄り添いつつ癒していたのだろう。
自分が何の役にも立てなかったことは残念でならないし、くやしくも思うが、彼が元気を取り戻してくれたのならそれでいい。ただ、複雑な思いはやはりどうしても拭えずにいる。このことで大地と美咲のあいだに強い絆が生まれ、悠人ひとりが蚊帳の外に置かれているように感じていた。それでも——。
「なまった体と頭にはきつかった」
筆記具を片手で片付けながら苦笑する大地を見て、悠人は目を細める。すくなくとも大学にいるあいだは彼を独占できる。橘の家にいるときのように疎外感を感じることもない。
「出来はどうだ?」
「単位は落としてないと思うよ」
ほとんど勉強をしないまま試験を受けることになったので心配していたが、何のてらいもなくそう答える彼を見て安堵する。いつものようにすべて優というわけにはいかなくても、単位がもらえるのなら上々だ。留年さえしなければ問題はないのだから。
行くぞ、と鞄を肩に掛けて立ち上がった彼に続いて、悠人も腰を上げた。
試験が終わった解放感からか、学生たちはそこかしこではしゃいだ声を上げていた。
悠人たちは特に話をすることなく賑やかな廊下を抜けて、建物の外に出る。今年はいつになく残暑が厳しく、九月もそろそろ終わりかけているというのに、ジリジリと灼けつくような陽射しが降りそそいでいた。
「おまえは病院へ行くんだったな」
「ああ、ようやくだよ」
真夏のような空を仰いで眉を寄せていた大地に確認すると、彼はギプスの腕を軽く掲げて笑った。今日、左腕のギプスを外す予定になっているのだ。これで不便なく日常生活を送れるようになるだろう。
「電車で行くのか?」
「いや、タクシーを拾う」
「その方がいいかもな……じゃあ、またあとで」
そう軽く右手をあげたが、彼はその場に立ちつくしたまま不思議そうに目を瞬かせた。
「おまえも一緒に来るんじゃないのか?」
「え、いや、僕は用があるからここで……」
「用って?」
まさか一緒に病院へ行くつもりでいたとは思わなかった。内心であせりつつもどうにか平静を装う。
「……ちょっと図書館に寄っていく」
「試験が終わったばかりなのに?」
「借りていた本を返しにいくだけだ」
「ふぅん」
訝しんでいるかのような相槌。
気のせいか何か疑われているように感じる。言ったことに嘘はない。ただ、言えないことがある。深く追及されたらどうしようかとびくついていると、彼はふっと笑みを浮かべた。
「まあ、せいぜい楽しんでこいよ」
それだけ言うと、軽く手を振りながら軽やかに大通りへ向かっていった。
せいぜい、楽しんで——?
悠人は去りゆく彼の後ろ姿を見つめながら眉をひそめる。図書館に本を返しに行くと言っただけなのにどうして。まさか——いや、それなら彼の性格からして黙っているとは思えない。特に深い意味はなく挨拶のようなものだろう、きっと。そう結論づけて思考を閉じた。
「悪かったな、延長しておくと言っておきながら」
「ううん、私の方こそ忘れていてごめんなさい」
美咲と総合図書館前で待ち合わせて本を返却すると、互いに謝罪する。
今日は返却しただけで借りてはいない。前回、小笠原旅行の前に借りたきりひと月以上も延滞となっていたのだ。フェリー事故で美咲も悠人も余裕がなく最近まですっかり忘れていた。延滞した場合は、超過した日数分の期間だけ新たに借りられないという罰則がある。美咲には申し訳ないがあとひと月ほど待ってもらうしかない。
自動ドアをくぐって外に出ると、正面に広がる空は残照でオレンジ色に染められていた。それでも九月らしからぬ昼間の熱気はまだ十分に残っている。そういえば、昼食のときから何も飲み物を口にしておらず喉がカラカラだ。喉どころか体中が干からびているように感じる。
「ジュースでも飲まないか?」
目についた自販機を指さして尋ねると、美咲はニコッとして頷いた。
「何にする?」
「んー……じゃあ、オレンジジュース」
待ってろと言い置いて、自販機でオレンジジュースとコーラを買って戻ると、総合図書館前の階段の隅に二人並んで座った。試験最終日の夕方だからかあたりは閑散としている。朱く染まった雲を眺めながら、悠人はコーラのプルタブを開けて口をつけた。美咲も隣でちびちびとオレンジジュースを飲み始めている。
ときどき、互いの腕が無意識にぶつかる。
美咲と気兼ねなく話ができるのも、触れられるのも、こうやって総合図書館に来たときだけである。そのあいだは彼女を独占できるのだ。もちろん学問の手助けをしたい気持ちも嘘ではない。悠人自身のためにも、彼女のためにも、大学卒業までの残り二年半はこのまま続けるつもりでいる。だが、その後は——。
「あの、悠人さん……」
ふいに美咲が遠慮がちに呼びかけてきた。悠人はコーラから口を離して振り向く。
「ん?」
「私、今度からお兄ちゃんと来ようと思うの」
あまりにも突然で思いがけない話。
悠人はコーラの缶を持ったまま唖然として凍りついた。曖昧な微笑を浮かべる彼女を瞳に映しながら、頭の中がまっしろになる。どのくらいそうしていたかわからないが、息苦しさに耐えられなくなったころ、ごくりと唾を飲んでどうにか平静を取りつくろった。
「大地には知られたくないんじゃなかったのか?」
「うん……でも、もうお兄ちゃんに嘘をつきたくないし……」
美咲はオレンジジュースの缶を見つめながら淡々とそう言うと、小さく微笑んで顔を上げる。
「それに、私ならきっとお兄ちゃんの役に立てるから」
「役に、立つ……それって……?」
悠人はいまだ働かない頭でぼんやりと彼女の言葉を反芻する。大地の役に立つ? 勉強することが? ——考えれば考えるほど頭が混乱していく。答えを求めるように漆黒の瞳をじっと見つめた。しかし。
「秘密」
美咲は両手でオレンジジュースの缶を持ったまま、肩をすくめて笑った。
「悠人さんとは今日が最後ね」
「そうか……」
勉強をやめるというのなら説得のしようもあるが、悠人でなく大地に頼ることにしただけだ。反対する理由はどこにもない。彼女がそう決めたのであれば、悠人の気持ちがどうであれ受け入れるしかないだろう。
もう美咲と二人きりで、こんなふうに過ごすことはできない——。
グッと奥歯を噛みしめてうつむく。彼女はこの時間を大切には思ってくれていなかったのだろうか。本を借りるためだけに悠人と図書館に来ていたのだろうか。ちらりと隣に横目を流すと、彼女は視線を感じたのかこちらに振り向いてニコリと笑い、肩ほどの黒髪をさらりと流しながら無邪気に覗き込んできた。
「ねぇ、悠人さん。私のこと好きだった?」
「……すこしね」
彼女がどういう意味で尋ねているのかわからず、悠人はわずかに視線を逸らせて薄く微笑み、曖昧に答えた。それを聞いて彼女もほんのりと微笑を浮かべる。
「私もすこし好きだったわ」
そして。
カラン、カラン——。
持っていたコーラの缶が、悠人の手から滑り落ちた。
色づいた炭酸がアスファルトに広がる。
白いスニーカーの上にも飛び散った。
美咲の柔らかくあたたかい唇の感触。
それが、悠人の唇からゆっくりと離れていく。
彼女の微かな吐息が、悠人の唇に掛かった。
二人は至近距離で目を見合わせる。
「いままでのお礼」
美咲は身を引いて座り直すと、オレンジジュースを両手で持ち直してはにかんだ。頬がほんのすこし赤い。しかしゆっくりと顔を上げて真剣な面持ちになると、どこか思い詰めたようなまなざしで前を見据えて言う。
「これからは、お兄ちゃんの……大地のために生きるから」
大地のために——。
ドクリと心臓が収縮した。彼女の声でその名前が紡がれるのを初めて聞いた。そして、まるで自分を犠牲にして尽くすかのような言い方——瞬間、ハッとして背筋に冷たいものが走る。旅行先が小笠原になったのは、彼女が海を見たいと言ったからだ。もしそのことを気にしているのだとしたら。
「美咲、君が責任を感じることはないんだ」
「責任じゃなくて感謝よ」
あせる悠人に、美咲は落ち着いてきっぱりと訂正した。それから愛おしげに小さな胸に手を当てる。
「海に放り出されたときも、海に飲まれたときも、お兄ちゃんが身を挺して守ってくれた。お兄ちゃんがいなかったら死んでいたわ。私の命はお兄ちゃんに助けてもらった。だからお兄ちゃんのために使いたい。お兄ちゃんが望んでくれるなら何だってする。それが私の意志」
「美咲、君は……」
「私、もう子供じゃないわ」
わかっているのかいないのか悠人の言おうとしたことを遮り、美咲は真顔で告げる。凛とした表情、芯の通った声、毅然とした物言い、決意を秘めた瞳——軽い気持ちではなく、覚悟を持って口にしているのだと知るには十分だった。しかし。
美咲、君はまだ子供だよ。
自分のしたことがどれほど残酷か、気付いてさえいないのだから——。
悠人は下唇を噛みしめる。かすかにオレンジジュースの甘ったるい味がした。