東京ラビリンス

ボーダーライン - 第2話 判らない

「おはよう、山田君」
「ん……ああ……」
 自席に座りながら声を掛けてきた澪に、隣の山田はビクリとして曖昧に返事をした。澪とはとても目を合わせられない。しかし、目を伏せるとギプスで固定された右腕が見え、嫌でもきのうの出来事が思い出される。もう話がついたことではあるが、それでもバツの悪さと気まずさが消えるわけではない。
「あの……」
 澪は机から身を乗り出し、小声で続ける。
「えっと、その……きのうはゴメンね。まだちゃんと謝ってなかったから」
 頬を染めてはにかみながら謝罪の気持ちを伝えてきた。山田としてはもう終わったつもりでいたが、考えてみれば自分は謝罪どころか事実をひた隠しにして逃げていただけである。彼女は勇気を出してあの場を取りなしてくれたというのに。
「俺も……ごめん……」
「うん、じゃあ仲直りだね」
 澪はほっと安堵の息をつきながらそう言うと、まだ少し頬を染めたまま、いつもと変わらない可憐な笑顔を見せた。山田もつられて笑顔になる。もう二人の間にわだかまりは感じられなかった。

 ただ、双子の兄が後ろから仄暗い目で眺めていたことに、山田は気付いていなかった。

「くっそ、片手はけっこう不便だな」
 右腕を怪我したことで、今まで意識せずにやっていたちょっとした動作も、片手では難しいのだとあらためて気付かされた。ズボンのファスナーを上げるのも一苦労である。今も、誰もいない放課後の男子トイレで、ひとり悪戦苦闘しているところだ。
 そのとき——。
 きれいな手がいきなり自分の手を払いのけ、力任せにファスナーを引き上げる。
「橘っ?!」
 山田は驚いて後方に飛び退き、その勢いでガラス窓に後頭部を打ちつけた。
 ここは男子トイレである。当然ながら、そこにいたのは澪ではなく双子の兄である遥の方だ。わかっていても、あまりにも似ているのでドキリとしてしまう。その可愛らしい面差しも、すらりとした背格好も、きれいな白い手も、澪とそっくりでまるで女の子のようだった。
「それ以上、怪我しないでよ」
「あ、ああ……」
 窓側に張り付いたまま放心状態で見とれていた山田に、遥は冷たい目を向ける。その表情は、決して澪が見せることのないものだ。山田はゾクリと身体の芯が震えるのを感じた。
「澪に変な期待するのはやめてくれる?」
「えっ?」
 前置きもなく突きつけられた彼の言葉を、山田は理解できなかった。変な期待というのはいったいどういう——不思議そうに見つめ返していると、遥は眉根を寄せ、若干声を低めて直接的な表現で言い換える。
「澪は君のことが好きなわけじゃない」
「そんなこと……おまえにわからないだろ」
「わかるよ。澪は誰に対してもああだから」
 彼の主張は理解したが、山田としては余計なお世話と言わざるを得ない。
「あんな顔で笑って、顔を赤らめて、顔を近づけてきて、あれで好きじゃなかったら何だってんだよ。キ……のことだって……別に怒ってはないみたいだし。突き飛ばしたのは単純に驚いたからで、嫌がってたわけじゃないだろ」
「へぇ……」
 遥は平坦な声でそう言うと、大きく一歩踏み出して間合いを詰めた。そして、外見からは想像もつかない馬鹿力で左手首を掴み、踵を上げ、互いの息が触れ合うほどに顔を近づける。その肌は雪のように白く、きめ細やかで、柔らかそうで——至近距離で見るとますます女の子のようだ。澪と同様の大きな漆黒の瞳が、瞬ぎもせず自分を見つめている。山田の顔はみるみる熱を帯びていった。
「そんなに顔を赤くしてどうしたの? 照れてるの? 僕のことが好きなの?」
「ちがっ……」
 上目遣いで不敵な笑みを浮かべる遥にあたふたし、思わず後ずさろうとするが、後ろは壁で一歩も下がることはできない。掴まれた手首を振り切ろうとしてもビクともしない。さらに遥はもう片方の手を山田の肩に掛けて、まるで寄りかかるかのように密着してくる。そして——。
「!!」
 あろうことか、彼自身の唇を、山田の唇にためらいもなく押し当ててきた。あたたかく、柔らかく、吸い付くような生々しい感触。あまりのことに頭が真っ白になり何も考えられない。
 やがて、そっと唇が離れた。
 掴まれていた手首も解放され、山田はガクガクと膝を震わせて崩れるようにへたり込んだ。そこがトイレであることなど考える余裕もなかった。倒れかかった上体を支えるように左手を床につく。その手首にはくっきりと指のあとが残っていた。
「少しはわかった? 勝手に好きだと決めつけられて、無理やりキスされるのがどんな気持ちか」
 頭上から降ってきたその声に、山田はおそるおそる青白い顔を上げる。自分をじっと見下ろす遥のまなざしは、蔑みに満ちた冷淡なもので、その威圧感に全身から汗が噴き出すのを感じた。おそらくこれは報復であり警告だ。澪に近づくことは許さないという強烈なまでの意志を感じる。それだけのために、同性である自分にキスまでしてきたのだから——。
 遥は素気なく背を向けて去っていく。だが、出入り口の前で立ち止まると、扉に片手をかけたまま振り返った。
「何か不便があったら、澪じゃなく僕に言ってよ。何でもしてあげるから」
 そう言って、まるで挑むようにニッと笑う。
 自分に向けられたその艶然とした表情に、山田は身震いとすると同時に、自然と鼓動が高鳴っていくのを感じた。またしても顔が紅潮していく。しかし、遥はそのことに言及しようともせず、無愛想に男子トイレをあとにした。

「わから……ねぇよ……」
 一人残された山田は、トイレの堅い床に座り込んだままぼそりとつぶやく。いつまでも顔が火照って冷めないことが、何とも歯がゆくもどかしかった。