「おはよう、佐藤くん」
始業間際に登校した佐藤隼人は、自分の席に着こうとして隣から声をかけられた。振り向くと、クラスメイトの橘澪がこちらを見上げながらにっこりと笑っていた。びっくりして心臓が口から飛び出しそうになる。これまで話したこともない彼女にいきなり笑顔で挨拶されたのだ。それもアイドルなど比べものにならないくらいの美少女なのだから、女子にあまり免疫のない佐藤がうろたえるのも無理はない。しかし、彼女の席はここではないはずなのにどうして——。
「ちょっと事情があって、遥と席を替わることになったんだ。今日からよろしくね」
「あ、うん……こちらこそ」
心臓が壊れそうなほどドキドキしながら、どうにか返事をして席に着く。
ふと前を見ると、もともと彼女が使っていた中ほどの席には、きのうまで佐藤の隣にいた遥が座っていた。彼は澪の双子の兄である。さすがというか双子だけあってそっくりで、男子とは思えないほどきれいな顔をしているが、それでも男子なのでときめくことはなかった。せいぜい見とれるくらいである。
事情があって席を替わったと彼女は言っていたが、どんな事情なのだろう。言葉を濁しているということは、知られたくないのかもしれない。もしかしたら自分に関係があるのではないか。とても気になるが詮索するだけの度胸はなかった。
事情は、聞かずともすぐにわかった。
きのうまで彼女の隣に座っていた山田という男子が右腕を骨折しているのだが、遥がその面倒を見ているのである。そうするために山田の隣に席を替えてもらったということだろう。これまで二人が親しくしていた印象はないので不思議だったが、今はつきっきりでかいがいしく世話を焼いている。給食まで食べさせてあげるくらいだ。自分が知らなかっただけでもともと親友なのかもしれない。
それにしても、遥がこれほどまで積極的に他人の面倒を見るとは意外だった。決して冷血なわけでも陰気なわけでもなく、必要があれば普通に話をするが、基本的に無駄なおしゃべりはせず、ほとんど表情を変えることもなく、いつもどこか近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。整った繊細な顔がなおさらそう感じさせるのだろう。
そのミステリアスな横顔を隣からひそかに盗み見るのが、佐藤は好きだった。単純に顔がきれいだからというだけである。いわゆる目の保養だ。彼が男子であることはわかっているので変な気持ちはなかった。しかし、今は彼とそっくりのとてもきれいな顔をした女子が隣にいる——。
「じゃあ、毎日埼玉から通ってきてるの?」
「うん」
「すごい! 時間もかかるし大変だよね?」
「でも、僕がこの学校に行きたかったから」
「えらいなぁ、ちゃんと自分で決めたんだ」
「そんなこと……」
「私なんかおじいさまの言いなりだもん」
澪は給食の牛乳を手に持ったまま、エヘッと笑う。
彼女が隣に来て三日目。最初のうちはガチガチに緊張していたが、彼女が人なつこく話しかけてくれるので、だいぶ普通に話せるようになっていた。特に給食中はとりとめのない話をすることが多く、そのささやかな時間がとても楽しくて嬉しくて待ち遠しい。
もちろん、彼女の行動に特別な意味がないことはわかっている。男子も女子も関係なくフレンドリーに接する性格なのだろう。ほかの男子とも気軽にしゃべっているのをよく見かけるし、それに——男子のネクタイを締め直していたことさえあるのだから。
その相手は先日まで澪の隣に座っていた山田である。彼のネクタイがゆるんでいることに澪が気付いて、締め直してあげたという感じだった。異性と話をするだけでからかわれるような小学校に通っていた佐藤にとって、その光景は衝撃だった。見てはいけないものを見た気がして、思わず物陰に隠れてしまったくらいだ。
もしかしたら付き合っているのではないかと思ったりもしたが、そういうわけでもなさそうだった。ただ単に席が隣だから親しくしているだけのように見えた。現に、今は新たに席が隣になった佐藤と親しく話をしている。あのころの山田と同じように。
だとしたら、自分にもチャンスはあるんじゃ——。
隣でパンをちぎりながら食べている澪の横顔を見ながら、ごくりと唾をのむ。あのすらりとした白い指が首元に触れ、小さくて色白できれいな顔が至近距離に来て、大きな漆黒の瞳をじっと向けられる——想像しただけで体が熱くなる。無意識にネクタイの結び目に手をかけると、紅潮した顔を隠すようにうつむいた。
その様子を、遥が冷たい横目を流して見ていたことに、佐藤は気付いていなかった。
翌日、ほんのすこしだけネクタイをゆるめて登校した。
もちろんそんなにうまくいくとは思っていない。けれど、こっそりと期待するくらいは許されるだろう。もし本当にそうなったらと考えるだけで興奮する。心を躍らせながら、いつもより軽い足取りで教室に向かっていると——。
「うわっ!」
いきなり横から腕をとられて男子トイレに連れ込まれた。わけもわからず、すぐ横の壁にドンと乱暴に押しつけられる。目の前にいたのは無表情の遥だった。
「え、なに……ぐぇっ!」
無言でネクタイを力いっぱい締め上げられ、首まで絞まった。それでも彼の手は緩まない。ミチミチとネクタイが嫌な音を立てる。女の子のように細くてきれいな手からは想像もつかない馬鹿力だ。声も出せないまま意識が遠のきかける——と、ふっと力が緩んだ。ゲホッとむせ、ゼイゼイと荒い息で酸素を吸い込む。
「ネクタイ、ゆるんでたよ」
彼はそう言って、何事もなかったかのようにネクタイの結び目を解いて締め直した。すらりとした白い指が首元に触れ、小さくて色白できれいな顔が至近距離に来て、大きな漆黒の瞳をじっと向けられる——望んだ光景だが、望んだ相手ではない。いったい何が起こっているのか理解できず、ただ頭が真っ白になる。
「ねぇ、どうしてネクタイゆるんでたの?」
近すぎる距離で、遥はすこし背の高い佐藤をじっと見つめたまま尋ねる。何を考えているのか表情からは読み取れない。きれいな白い手はいまだネクタイに添えられている。佐藤はドクドクと激しく鼓動が暴れるのを感じながら、目をそらした。
「そんなの、知らない……」
「ネクタイがゆるんでるなんて初めてだよね」
「たまたまだよ……今日、寝坊したから……」
「そう、これからは気をつけてね」
遥は淡々とそう言い、手にしていたオレンジ色のネクタイをブレザーの中におさめた。そして呆然と立ちつくしたままの佐藤を残し、素知らぬ顔で男子トイレをあとにしようとする。しかし、扉に手をかけたところでふいと振り向くと、挑発的な目で佐藤を見つめ、小さなくちびるをかすかに弧の形にする。
「ゆるんでたら、また僕が締め直してあげる」
その声には、残忍な愉悦のようなものが含まれていた。
佐藤はゾクリと身震いする。彼が扉を開閉して出て行くあいだも、足の震えが止まらなかった。多分、すべて知られていたのだ。佐藤がどういうつもりでネクタイをゆるめていたのかも、澪に対してどういう気持ちを抱いていたのかも。これは、間違いなく警告だ——。
始業のチャイムが聞こえたが、しばらくのあいだそこから動くことができなかった。
「ボーダーライン - 第3話 妹のため」前半あたりの、別のクラスメイト視点の話です。