「ありがとう、悠人さん。おかげでようやく本を返せたわ」
大学の図書館という場所にはそぐわない、まだあどけない少女が、カウンターで返本手続きを終えて悠人のもとに駆け戻ってきた。年相応な無邪気で愛らしい笑顔を見せる。
彼女の名前は橘美咲。
悠人の親友・橘大地の妹である。妹といっても血は繋がっていない。一年ほど前、孤児となった美咲が橘家に引き取られ、大地と兄妹になったのだ。
悠人が彼女と知り合ったのもその頃だった。
最初は、大地に紹介されて会ったのだが、少し可愛いだけの普通の少女で、何の興味も持てなかった。
だが、あるとき、区立図書館で彼女を見かけて、それまでの印象が大きく覆った。当時まだ小学6年生の彼女が読んでいたのは、大学レベルの物理学の本だったのである。ただ何となく眺めているだけではない。ノートには明らかに意味のある数式がいくつも書き込まれていた。
悠人が声を掛けると、彼女は驚き、そしてすぐに泣きそうな顔になった。誰にも言わないでほしいと懇願する。話を聞いてみると、彼女は物理学や生物学などに興味があり、幼い頃から独学で勉強していたが、変わり者だと思われたくないのでずっと隠してきたというのだ。
悠人は彼女の才能に興味を覚えた。彼女の才能を伸ばすことに協力したいと思った。彼女のためというよりも、純粋に悠人自身の興味である。この少女がいったいどこまで突き進むのか見てみたかったのだ。それゆえ、大学の図書館に特別に利用許可をもらい、週一度程度、彼女を連れて通うようになったのである。
それから一年、彼女のレベルはすでに悠人を越えていた。
彼女は間違いなく天才だ。
しかし、それを知っているのは自分だけである。彼女のことを何よりも大事にしている大地ですら知らない——そのことに、悠人は少なからぬ優越感を覚えていた。
「新しい本は借りなかったの?」
悠人が尋ねると、美咲は少し困ったように曖昧な笑みを浮かべる。
「うん、延滞しちゃったし……」
「事情が事情だから仕方ないよ」
美咲は、大地とともに小笠原旅行へ向かう途中、乗っていたフェリーが沈没するという事故に遭った。生存者は美咲と大地の二人だけという大事故で、当然ながらニュースにも大きく取り上げられた。今、世間で知らぬ者はいないといってもいいだろう。二人とも大きな怪我はなかったが、念のため検査入院をしたり、警察に事故の状況を聞かれたりして、夏休み中は自由になる時間がほとんどなかったのである。
「話せばわかってもらえるんじゃないかな。僕が行こうか?」
「今は……いいわ」
美咲は少し躊躇いがちにそう言い、悠人を見上げて微笑んだ。
自動ドアを二つくぐって、二人は図書館の外に出た。
日はすでに沈み掛かっており、空は残照でオレンジ色に染められている。それでもまだ昼間の熱気は十分すぎるほど残っていた。もう九月だというのに、いまだに真夏のように暑く、半袖でも汗が滲むくらいである。悠人はすぐそばの自販機を指さして言う。
「ジュース飲む? 奢ってあげるよ」
「ほんと?」
美咲は目を輝かせて振り向いた。悠人はにっこりと笑みを浮かべる。
「快気祝い」
「じゃあ、オレンジジュース」
彼女は子供らしく無邪気に声を弾ませて言った。
悠人は、美咲のオレンジジュースと自分のコーラを買ってくると、図書館前の階段に美咲と並んで座った。朱く染まった雲を眺めながら、コーラに口をつける。美咲も隣で少しずつオレンジジュースを飲んでいた。ときどき、互いの腕が無意識に触れ合う。
「あの、悠人さん……」
不意に、彼女が遠慮がちに呼びかけてきた。悠人はコーラから口を離して彼女に振り向く。
「何?」
「私、今度からお兄ちゃんと来ようと思うの」
思いがけない彼女の言葉。悠人はコーラの缶を持ったまま硬直し、頭の中が真っ白になった。長い長い沈黙のあとで、ごくりと唾を飲み、なんとか平静を取り繕って尋ねる。
「知られたくないんじゃなかったの?」
「もうお兄ちゃんに嘘をつきたくないし……」
美咲はうつむいて静かにそう言うと、ニコッと笑顔を作って悠人に振り向く。
「それに、私きっとお兄ちゃんの役に立てるから」
「役に、立つ……?」
悠人はいまだ頭の働かない状態で、ぼんやりと彼女の言葉をオウム返しする。大地の役に立つ? 勉強することが? いったいなぜ——考えれば考えるほど混乱していく。答えを求めるように、澄んだ漆黒の瞳をじっと見つめた。しかし。
「秘密」
美咲は両手でオレンジジュースの缶を持ったまま、肩をすくめてくすっと微笑んだ。
「だから、悠人さんとはこれが最後」
「そうか……」
理由はわからないが、彼女が決めたことである。悠人はそう答えるしかなかった。勉強をやめるというのなら説得のしようもあるが、悠人ではなく大地に頼ることにしたというだけだ。口を挟むことなどできはしない。
美咲は、肩の長さに切りそろえられた黒髪をさらりと流しながら、首を伸ばして悠人を下から覗き込む。
「ねぇ、悠人さん。私のこと好きだった?」
「……少しね」
悠人は彼女から僅かに視線を逸らせ、薄く微笑んだ。もうずいぶん前から自分の気持ちには気付いていた。そして、それが叶わないことも最初から理解していた。
「私も少し好きだったわ」
そう言って、美咲はにっこり笑った。
そして。
カラン、カラン——。
持っていたコーラの缶が、悠人の手から滑り落ちた。
色づいた炭酸がアスファルトに広がる。
白いスニーカーの上にも飛び散った。
美咲の柔らかくあたたかい唇の感触。
それが、悠人の唇からゆっくりと離れていく。
彼女の微かな吐息が、悠人の唇に掛かった。
二人は至近距離で目を見合わせる。
「今までのお礼」
美咲は身を引いて座り直すと、再びオレンジジュースを両手で持ち、照れたようにはにかんだ。それから、少し真面目な顔になって言う。
「これからは、お兄ちゃんの……大地のために生きるから」
悠人はハッとした。まさか、彼女は沈没事故のことを引きずっているのだろうか。そもそも小笠原へ行くことに決めたのは、美咲が「海が見たい」と言ったからだと聞いている。だとしたら。
「美咲、君が責任を感じることはないんだ」
「責任じゃなくて感謝よ」
美咲はきっぱりと訂正した。それから愛おしげに小さな手を胸に当てる。
「私の命はお兄ちゃんに助けてもらったもの。だから、お兄ちゃんのために使いたい。それが私の意志なの」
「美咲、君は……」
「私、もう子供じゃないわ」
美咲は真顔でそう言った。そこにあったのは、先ほどまでの年相応な子供っぽさではなく、自分の意志を貫き通そうとする毅然とした態度だった。
しかし——。
美咲、君はまだ子供だよ。
だって、自分のしたことがどれほど残酷か、気付いてさえいないのだから——。
悠人は下唇を噛みしめる。少しだけオレンジジュースの甘ったるい味がした。