「今度の休日?」
食堂の窓際で昼食をとっていたジョシュは、フォークを持つ手を止め、向かいに座るサイラスに聞き返した。
「うん、何か予定ある?」
「別にない……けど……」
何となくサラダをつつきながら歯切れ悪く答える。今までサイラスにこんなことを尋ねられたことはなく、いったい何なんだろうと訝しく思う。そんな心情を察したように、サイラスはにっこりと微笑んで理由を述べる。
「ユールベルがね、お礼をしたいって言ってるんだよ」
「お礼って、何の?」
「ほら、レイモンドの……」
「ああ……」
濁された言葉を察して、ジョシュは低い声で頷いた。彼女にとっては思い出したくもない出来事だろう。それをわざわざ気にして、律儀に礼などしなくてもいいのにと思う。
「夕方頃に研究所の前で待ち合わせでいいかな」
「俺はいつでもいいよ」
笑顔で尋ねるサイラスに、ジョシュは感情を見せずに素っ気なく答える。
ユールベルはアカデミーにあるサイラスの部屋を何度か訪れているようだ。研究所は関係者以外は原則的に立ち入り禁止であり、今はサイラスを通してしか連絡が取れないことはわかっている。だが、彼女がサイラスのところに行く理由はそれだけではないだろう。
「時間はまた連絡するよ」
「わかった」
ジョシュはサラダに目を落としたまま頬杖をつき、短く返事をした。
「早すぎたな……」
ジョシュは腕時計を見ながら呟いた。待ち合わせの時間まではまだ30分以上ある。だが、遅れるよりはいいだろうと思い直し、塀に寄り掛かって腕を組んだ。
ユールベルに対する罪悪感はまだ消えたわけではない。それでも、彼女を避けることは彼女を傷つけるだけだとわかった。いや、それは単なる言い訳だろう。彼女との繋がりを断ち切りたくないと自身が願っていることは自覚していた。
小さく息を吸い込んで、優しい色の青空を見上げる。
その穏やかな空とは対照的に、ジョシュの気持ちは落ち着かずそわそわしていた。ユールベルの実習終了の日以来、彼女とは一度も会っていない。約一ヶ月ぶりである。しかも、休日に待ち合わせをして会うことは初めてなのだ。さらに「お礼」の内容も気になっていた。彼女の考えていることはわかりづらいのでなおさらである。いったいどこへ行くつもりなのだろうか、そして、何をしてくれるのだろうか——。
「ジョシュ、早いね」
「うわぁっ!」
ぼんやり考えているところに、突然横から声を掛けられ、ジョシュは大きな声をあげて飛び退いた。そのあまりの驚きように、声を掛けたサイラスの方も目を丸くして驚く。
「ごめん、そんなにビックリするなんて思わなくて」
「……何しに来たんだよ、先生」
ジョシュは訝しげに横目でじとりと睨んだ。まさか自分をからかうためだけにわざわざ来たりはしないだろう。たまたま通りかかったか、それとも休日出勤か何かだろうと思う。
「何しにって、待ち合わせだから来たんだけど?」
「…………??」
二人の話は噛み合っていなかった。互いに不思議そうに顔を見合わせている。しかし、サイラスが何かをひらめいたらしく、急にパッと顔を明るくして言う。
「もしかして、ジョシュ、自分だけって思ってた? 僕もジョシュと一緒に誘われてるんだよ。今日はここで3人で待ち合わせ。言わなかったっけ?」
「そっ……そんなこと聞いてないっ!」
ジョシュは顔を真っ赤にして言い返した。サイラスも一緒などとは一言も聞いていない。だが、ジョシュ一人だとも言われていない。考えてみれば、確かにサイラスもユールベルを助けたわけで、お礼を受けるのは当然のことである。
「ごめんね、変に期待を持たせちゃったみたいで」
サイラスは軽く笑いながら言う。揶揄しているわけではなさそうだが、ジョシュとしては図星を指されて居たたまれない気持ちになり、さらに顔を赤くして目を泳がせた。
「別に……そういうわけじゃない……」
「喧嘩、しているの?」
「うわぁっ!」
背後から声を掛けてきたのはユールベルだった。ジョシュは全身の毛が逆立つほど驚いた。バクバク脈打つ心臓を押さえながら、不思議そうにしているユールベルを狼狽えながら見つめる。
「別に喧嘩ってほどじゃないよ。ね、ジョシュ」
「あ、ああ……」
サイラスの助け船に感謝しながら、ジョシュは曖昧に頷いた。鼓動はまだ早鐘のように打っている。それが彼女に伝わらないよう祈りながら、暴れる心臓を静めようと深く呼吸をした。
「これからどこへ行くの? そろそろ教えてくれないかな?」
サイラスは前を歩くユールベルに尋ねた。サイラスもジョシュも、まだ行き先すら知らされていない。サイラスは今日にいたるまで何度か尋ねたが、ユールベルは内緒だと言って教えてくれなかったらしい。だが今度はあっさりと答える。
「私の家よ」
ジョシュの眉がピクリと動いた。
彼女のフルネームはユールベル=アンネ=ラグランジェである。つまり——。
「ユールベルの家ってことはラグランジェ家……だよね」
「まあ、そういうことだよな」
サイラスも同じことを考えていたようで、声をひそめてジョシュに確認してきた。
「なんか緊張してきたなぁ」
その言葉とは裏腹に、サイラスはどことなく嬉しそうだった。魔導の研究をしている彼が、その名家であるラグランジェ家に憧れの気持ちを持つことは不思議ではない。行ったからといって特に何かがあるわけではないだろうが、それでもミーハー心くらいは満たされるだろう。普通なら一生かかってもこんな機会はあるかどうかわからないのだ。
「ジョシュ、気に入らないからって暴れたりしないでね」
「……そこまで子供じゃない」
確かにラグランジェ家は嫌いだし、自分に大人げない部分があるのも事実だが、いくら何でも招待されておきながら理由もなく突っかかったりはしない、と心の中で反論する。
「ラグランジェ家ってわけじゃないわ」
二人の勝手な誤解に黙っていられなくなったのか、前を歩いていたユールベルが、顔だけちらりと振り向けて言った。そして、感情の見えない声で付言する。
「私、親とは一緒に住んでいないから」
それを聞いたジョシュの表情は途端に険しくなった。
親と一緒に住んでいないということは、おそらく一人暮らしなのだろう。
だとしたら——。
脳裏には資料室でのことが鮮明によみがえった。ジョシュが様子を見に行かなかったら、誰にも気づかれることなくあのままレイモンドに襲われていたかもしれない。そんなことがあったというのに——。
ジョシュはサイラスの腕を引っ張って歩みを遅らせ、ユールベルから少し距離をとると、今度は彼女に聞こえないよう声をひそめて耳打ちする。
「一人暮らしの家に男を入れるなんて軽率すぎないか?」
「でも僕たち一人ってわけじゃないし」
「男が二人もいたら余計に危険だろう」
「僕たちのことは信用してくれてるんだよ」
サイラスもひそひそと小声で答える。しかし、ジョシュは納得しなかった。サイラスの言うことは間違っていないと思うが、そういうことではなく、ジョシュとしては危機意識の話をしているのだ。
「簡単に男を信用すると痛い目を見るぞ」
顔をしかめて舌打ちをして、ジョシュは苦々しく言う。
しかし、サイラスはその隣でにこにこと微笑んでいた。
「……何だよ」
「ジョシュってばすっかり保護者だね」
「……危なっかしいんだよ、あいつは」
ジョシュはぶっきらぼうに答えると、前髪を掻き上げて顔を上げた。少し先を歩くユールベルの金髪が、緩やかなウェーブを描いて風に揺れている。そして、そこに結ばれた白い包帯も、同じように軽やかに、そしてどこか頼りなく揺れていた。
ユールベルが入っていったのは、まだ真新しいマンションだった。建物自体はそれほど大きくないが、落ち着いた上品な造りで、そこはかとなく高級感が漂っている。彼女はエントランスを通り抜け、階段を上ると、突き当たりの扉を重たそうに開いた。
「あれ? 早かったね」
「迎えに行っただけだから」
中からユールベルに声を掛けたのは、上半身裸で首にタオルを掛けた男だった。鮮やかな金の髪からは水滴が滴っている。どうやら風呂上がりのようだ。彼はユールベルの後ろにいたジョシュとサイラスにちらりと目を向ける。
「その人たち?」
「ええ」
確認するような短い質問に、ユールベルは中に入りながら肯定の答えを返した。それを聞いた彼は、タオルで前髪を掻き上げ、眩いばかりの笑顔を二人に向ける。
「いらっしゃい、今日はゆっくりしていって」
そんな歓迎の言葉を口にすると、スタスタと部屋の中へと入っていった。
「……えっと、誰?」
呆然として固まっていたサイラスは、ようやく口を開き、男の消えていった方を指さしながらユールベルに尋ねた。それはジョシュが聞きたかったことでもある。まさかとは思うが——。
「弟のアンソニーよ」
ユールベルの素っ気ない答えを聞いて、ジョシュの全身からどっと気が抜けた。そして、自分の先走った勝手な勘違いに、思わず苦笑いを浮かべた。
「お茶を入れてくるから待っていて」
ユールベルはそう言い残して台所へと消えていった。
居間のソファにはジョシュとサイラスが並んで座り、ローテーブルを挟んだ向かいにアンソニーが座っている。先ほどは薄暗がりでよくわからなかったが、明るいところであらためて見てみると、身長はジョシュと変わらないくらいだが、その顔にはまだ少し幼さが残っていた。しかし、鮮やかな青の瞳はそれとは不釣り合いに鋭い。ジョシュは何か心を見透かされているようで落ち着かなかった。
ふと、アンソニーは不敵な笑みを浮かべて言う。
「下心満載で来たのに、弟がいてガッカリってところ?」
「べっ、別にそんな……ここに来ることも知らなかったんだ!」
ジョシュは顔を真っ赤にして狼狽し、こぶしを握りしめながら反論した。言っていることに嘘はないのに、その必死さのせいで、かえって言い訳くさくなってしまった。困惑ぎみに奥歯を噛みしめてうつむく。そんなジョシュを見て、アンソニーはくすくすと笑い出した。
「わかりやすいね、おにいさん」
「…………」
「冴えなくて頼りない感じだけど、悪い人じゃないみたいだし、僕としてはあえて反対はしないよ。頑張ってみたらいいんじゃない?」
——このマセガキ……!
喉元まで出かかったその言葉を、ジョシュはぐっと飲み込んだ。この無性に反発したくなる感覚は、以前にも何度も味わった覚えがあった。それは、確か仕事のとき——。
「あっ、君、どこか見た感じだと思ったら、サイファさんに似ているんだ。顔もそうだけど、雰囲気も近いものがあるね」
「本当? そうだったら嬉しいんだけど」
サイラスの言葉に、アンソニーはどこか誇らしげに顔をほころばせる。
そうか——。
ジョシュは納得した。人目を引くような端整で華やかな顔立ちに、余裕を見せつけるような態度、相手を軽くいなすような口調。どれも自分の苦手なあの男にそっくりである。だから無意識のうちに反発したくなるのだろう。
そのとき、台所からユールベルが戻ってきた。紅茶をのせたトレイをローテーブルに置くと、不機嫌にしていたジョシュを見上げて心配そうに尋ねる。
「アンソニーが何か失礼なこと言ったの?」
「いや、別にそういうわけじゃ……」
「普通に雑談していただけだよ。ね、おにいさん」
言葉に詰まったジョシュの代わりに、アンソニーが人なつこい笑顔で答えた。彼がどういうつもりかはわからないが、会話の内容を知られたくなかったジョシュにとっては、そのごまかしはありがたいことだった。
アンソニーはすっと立ち上がると、腰に手を当てて背筋を伸ばす。
「じゃあ、そろそろ僕は準備にかかるよ」
「ええ、お願い」
ユールベルは紅茶を配りながら言った。
「準備?」
サイラスが口に出したその言葉は、そのままジョシュの疑問でもあった。二人そろって不思議そうな視線を投げかけると、アンソニーは軽くさらりと答える。
「ご馳走を作るんだよ」
「おまえが?」
今度はジョシュが聞き返した。
「今日おにいさんたちを呼ぼうって言い出したのは、実は姉さんじゃなくて僕なんだよね。姉さんが襲われかけていたところを助けてくれたって聞いたから、そのお礼をしようと思ってさ」
アンソニーは胸に手を当てて丁寧に答えながら、爽やかな笑顔を見せた。
「いやー、これはなかなか本格的だね」
出された料理を次々と口に運びながら、サイラスは感嘆の声を上げた。なぜか少し悔しい気持ちはあるが、ジョシュもそれには同意せざるをえなかった。正直、弟が作ると聞いたときは、食べられるものが出てくるのか心配したが、目の前に並んでいる料理は、ちょっとした高級レストランで出てきそうなこじゃれた盛り付けがなされている。そして、料理の正確な名前はわからないが、肉料理もスープもパンも、どれも文句なしに美味しい。
「喜んでもらえて良かった」
アンソニーはきれいな顔を無邪気にほころばせた。
その隣で黙々とナイフを動かしているユールベルを、ジョシュはちらりと盗み見る。
彼女についてはほとんど何も知らない。
これまで、仕事についての必要最低限のことしか話をしてこなかった。
気になることはたくさんある。目の包帯のこと、家族のこと、親元を離れている理由、これまでどんな生き方をしてきたのか——今日、ここへ来て初めてその一端に触れられた気がするが、そのことでなおさら知りたいと思う気持ちは大きくなった。だからといって、まだ親しくもない自分が、何の脈絡もなく尋ねることなどできない。
「ねえ、おにいさん。姉さんに見とれてないで、冷めないうちに食べてよ」
「……見とれてなんかない」
ジョシュは無愛想に答えると、視線を落として再び黙々と食べ始めた。ユールベルがどんな反応をしていたのか気になったが、何かに頭が固定されてしまったかのように、どうしても顔を向けることができなかった。
皆の食事が終わると、ユールベルはすぐに台所に向かった。コーヒーの豆を挽いているようだ。香ばしい芳醇な香りが、ジョシュたちのいる居間にも漂ってきている。
「姉さん、このところ毎日コーヒー淹れる練習をしてたんだ。不器用だから失敗ばかり続いてたけど、これだけは自分でやるって頑張ってたよ。あ、今はちゃんと美味しく淹れられるようになったから安心して」
アンソニーの話を聞いて、サイラスはくすっと笑った。
「ユールベル、不器用なんだ」
「魔導は器用にこなすんだけど、少なくとも家事はからきし駄目だね。だから、家のことはだいたい僕がやってるんだ。姉さんと結婚すると大変だと思うよ?」
アンソニーは意味ありげな視線をジョシュに流しながら言う。
「……何で俺に言うんだよ」
完全にからかわれているとジョシュは思った。
それがわかっているのかいないのか、サイラスはさらに話を弾ませる。
「ジョシュはこう見えても結構マメなんだよ。自炊もしてるって」
「へぇ、なら安心だね」
「あのなぁ……!」
ジョシュは顔を紅潮させてローテーブルに手をついた。そのとき——。
「コーヒー……」
人数分のコーヒーを持ってきたユールベルが、ジョシュの背後でぽつりと呟く。
ジョシュの心臓は飛び跳ねた。
今日はこんなことばかりである。彼女がどこから話を聞いていたのか気になったが、尋ねては藪蛇になるかもしれないとあえて口をつぐんだ。なぜ自分だけアンソニーの標的にされているのかわからないが、これでは生きた心地がしない。
気持ちを落ち着けるために、彼女が持ってきたコーヒーを口に運ぶ。
期待していなかったわけではないが、その美味しさには少しばかり驚いた。随分と良い豆を使っているようだ。挽き立てというのもあるだろう。もちろん、何より彼女の淹れ方が良かったに違いない。
ジョシュはちらりと彼女に目を向けた。彼女はなぜかサイラスの隣に座り、コーヒーに口をつける彼を、じっと不安そうに覗き込んでいる。
「先生、美味しい?」
「美味しいよ」
サイラスはにっこりとして答えた。なおもユールベルは食い下がる。
「先生がいつも飲んでいるのと比べてどっちが美味しい?」
「うーん、どっちもそれぞれ美味しいかな」
「そう……」
その会話を聞いて、ジョシュはピンと来た。おそらくユールベルもサイラスの不味いコーヒーを飲まされたのだろう。だからこれほど必死になって美味しいコーヒーを飲ませようとしていたのだ。
それにしても——。
ジョシュは呆れた眼差しをサイラスに送る。
普通はお世辞でもユールベルの方が美味しいと言うところだろう。というか、実際、ユールベルの方が比べ物にならないくらい美味しい。劣化したインスタントと比較すること自体が失礼である。もっとも、彼はその劣化したインスタントを本気で美味しいと思っているようだが——。彼に悪気がないことはわかっているし、そういうずれたところも憎めないのだが、このときばかりは本気で何とかならないものかと思った。
「姉さん、ちょっと」
ふとアンソニーはそう言うと、隣のユールベルに手を伸ばし、緩んでいたらしい後頭部の包帯を手際よく結び直した。その様子を眺めながら、サイラスは何気ない調子で尋ねる。
「そういえばずっと包帯しているね。ものもらいか何か?」
「…………」
ユールベルとアンソニーの動きが止まった。表情は僅かに強張っているように見える。その変化にはさすがのサイラスも気づいたようで、戸惑いを覗かせながら、控えめにおそるおそる尋ねる。
「えっと、もしかして聞いちゃいけなかった?」
「いいの、別に隠しているわけじゃないから」
ユールベルは小さな声でそう言うと、浅く呼吸をしてから続ける。
「右目、見えなくて……それに、目のまわりにひどい火傷の跡が残ってるの」
端的な説明だが、その内容は重い。目が見えないだけでも大変なことなのに、顔に火傷の後など、女の子にとってはどれほどつらいことかと、ジョシュは想像するだけでどうしようもなく気持ちが重くなった。掛ける言葉などとても見つからない。
しかし、サイラスは優しく表情を緩めて口を開く。
「ごめんね、つらいこと言わせちゃって」
「訊いてくれて良かった……」
ユールベルは下を向き、ぽつりとそんな言葉を落とした。
それが本心なのかどうか、ジョシュにはわからなかった。そんなことを訊けるわけもない。少しだけ、サイラスの無神経さがうらやましいと思った。
「じゃあ、そういうことでさ、気を取り直して楽しくやろうよ!」
アンソニーは明るくそう言うと、みんなに話を振って会話を盛り上げていく。会話の中心にいたのは常にアンソニーだった。ユールベルは訊かれたことにぽつりぽつりと答えるだけである。それでも、ジョシュにとっては、これまで研究所で交わしたどの会話よりも意味のあるものだった。
外がすっかり暗くなったころ、ジョシュとサイラスはそろそろ帰ることにした。
ユールベルとアンソニーは二人を玄関まで見送る。ユールベルは研究所まで送ると言ってくれたが、それは断った。道はわかっているし迷うことはないだろう。少し歩けば知った場所に出るのだ。
「じゃあまたね、ユールベル」
「今日はありがとう、来てくれて」
ユールベルは淡々と礼を述べる。
感情の見えない彼女を眺めながら、ジョシュは今日のことを思い返して少し不安になった。不快な思いをしなかっただろうか、自分たちを呼んだことを後悔していないだろうか、と——。
「姉さん」
アンソニーはユールベルの背後から声を掛けると、身を屈め、口もとを隠しながら彼女に何かを耳打ちする。その視線はちらりとジョシュに向けられた。あからさまに何らかの含みを持った意味ありげなものである。
——まさか!
ジョシュの頭にカッと血が上った。
「おまえ何を言った?!」
必死の勢いでアンソニーを追及するものの、彼はにこにこと微笑んだままで何も答えようとはしない。間違いない。アンソニーが言ったのは自分のことなのだ——。慌ててユールベルに振り向くと、みっともないくらいにあたふたと両手を動かしながら言う。
「ユールベル、いま聞いたこと、聞かなかったことにしてくれ!」
ユールベルは無表情でジョシュを見つめたまま、小さな声でぼそりと言う。
「あしたの献立の話なんだけど……」
「……え?」
ジョシュは動きを止めたまま、ヒクリと顔を引きつらせた。
夜の帷が降りた道を、二人は並んで歩く。静かだった。ここに来るときは、付近の住民らしき人々とよく擦れ違ったが、さすがに夜ともなるとチラホラとしか歩いていない。
サイラスは星空を仰いでにっこりと微笑んだ。
「お姉さん思いのいい弟さんだったね」
「どこが!」
さんざん彼にからかわれたジョシュは、思わず感情的にそう返したものの、姉思いという部分に関しては同意見だった。ユールベルも彼を頼りにしているようだ。そうでなければ、レイモンドに襲われかけたことなど話したりはしないだろう。
「あいつ、身近に頼れる人間がいたんだな。良かったよ」
「それが自分でなくて、本当は少し残念だったりする?」
サイラスの冗談めかしたような言葉が、ジョシュの胸にズクリと突き刺さる。
「バカ言うなよ」
少し歩調を早めながら、ジョシュは平静を装ってはぐらかすように答えた。
それが彼の精一杯だった。
「あまり変なことを言わないで」
ユールベルは玄関の鍵をかけながら、背後のアンソニーに少し怒ったようにそう言った。先ほどアンソニーが耳打ちしたことは献立の話などではなかった。咄嗟にユールベルがそう取り繕ったのである。
「姉さん、もしかして先生の方が好きだった?」
「あの人たちは、そういうのじゃない」
「僕はどっちでもいいと思っているよ」
ユールベルの話を聞いているのかいないのか、アンソニーは軽く笑いながら勝手なことを言う。どこまで本気で言っているのか、ユールベルにはわからなかった。ドアノブに掛けた手にギュッと力を込め、うつむいたまま小さな口を開く。
「アンソニー……私のこと、邪魔なの?」
その仄暗い声に、アンソニーはハッと息を呑んだ。
「ごめん、そんなつもりじゃなかった」
低く真面目な声でそう言うと、後ろからユールベルの細い身体を包み込むように抱きしめる。その動作は、まるで壊れ物を扱うかのような優しく慎重なものだった。
「ごめんなさい……」
ユールベルは涙まじりの掠れた声を落とした。そして、頼りない肩を震わせると、首が折れそうなほどに深くうつむいた。