暖炉で温まった部屋で、アリアは寝台に横たわり静かに眠っている。
救出後、チャーチル邸で身体を温めつつ傷の応急処置を施し、彼女の状態が落ち着いてからスペンサー邸に連れ帰ると、すぐに医者に診てもらった。擦過傷も凍傷も打撲も広範囲ながら比較的軽度だったが、寒さで体調を崩しており、精神面もやや心配なので、しばらくは療養したほうがいいだろうとのことだった。
何があったのかは、チャーチル邸で応急処置をしているときにアリアから聞いた。一方でメイソンも別室でレイモンドから話を聞き出したようで、それをアイザックに伝えてくれた。双方の話に齟齬はないので、レイモンドがなぜこんなことをしたのかはわからないが、起こったことについては事実と考えていいだろう。
寝台脇の椅子に腰掛けてアリアを見守っていたアイザックは、血色のよくなった彼女の顔を見つめたまま、膝の上で組み合わせていた手に無意識にじわじわと力をこめ、双方から聞いた話を思い出していた。
「よろしければ庭園をご案内しましょうか」
チャーチル邸で夫人たちとお茶会をしていたとき、レイモンドが入ってきて物腰やわらかに挨拶したあと、アリアにそう声をかけてきた。以前、劇場で会ったときにそういう話をしていたが、社交辞令ではなかったのだとアリアはうれしく思った。
「ぜひお願いします。アンジェラ様もご一緒にいかがですか?」
「せっかくですけどご遠慮するわ。寒いのは苦手なの」
申し訳なさそうに肩をすくめて断る。
あたたかいところの出身なので寒さに弱いのだろう。雪がちらつく中、足元のよくない庭を散策しようと思わなくても不思議ではない。
「では参りましょう」
母のイザベラも他の夫人たちもすでに何度も見ているし、寒さがつらいということで、行くのは最終的にアリアだけということになった。
別室にいた侍女に、庭に行くことになったと話して外套を着せてもらう。そのとき自分も同行すると侍女が申し出てくれたが、アリアは断った。風邪ぎみのようなので寒い外を連れまわしたくなかったのだ。
実際、外はかなり冷え込んでいた。しっかりと外套を着込んでいるにもかかわらず震えるほど寒い。吐く息も白い。ただ、庭園に入っていくにつれて次第に気持ちが高揚していき、寒さを忘れそうになった。
「王都ではそんなに雪が積もりませんからね。雪化粧の庭園を見られるなんて貴重ですよ」
「本当にきれい……赤やピンクの椿に雪がかかって彩りが素晴らしいです」
レイモンドは紳士的に親切に案内してくれた。
足元の悪いところは先に教えてくれたし、必要に応じて手を差し伸べてくれたし、アリアに合わせてゆっくり歩いてくれた。庭についても専門的なことから思い出話まで広く語ってくれて、とても楽しめたという。だから邸宅から離れた奥のほうにも警戒することなくついていったのだが——。
「お見せしたいものがあります」
そう言って物置小屋へと促されてアリアは戸惑った。
夫でもない男性と密室で二人きりになってはいけないと教えられている。だが、断ると不快な思いをさせてしまうかもしれない。せっかく親切にしてくれたのに失礼ではないか。そう無言で葛藤していると。
「いいから来るんだ」
「えっ?」
しびれを切らしたレイモンドに腕をつかまれ、無理やり物置小屋の中へ放り込まれてしまった。虚を突かれた一瞬の出来事だ。たたらを踏んで振り返ると、彼が開いた出入り口のまえで仁王立ちしていた。
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
寒いはずなのにじわじわと汗がにじんでくる。喉もカラカラに渇いている。逆光で彼の表情はよく見えないし、彼が何をしようとしているのかわからないが、それでもよくない状況だというのは察せられた。
「……どういうおつもりですか」
顎を引いて警戒心あらわに彼を見据えたまま、声を絞り出した。
しかし答えは返ってこない。
息の詰まるような重苦しい沈黙がつづく中、彼が一歩踏み出した。アリアは逃げるように一歩下がったものの、雑に置かれた木箱に踵が当たってしまう。しかしながら彼は一歩また一歩と詰めてくる。
こうなったら一か八か——。
アリアは彼をかわして出入り口に向かおうと走り出したが、狭い物置小屋では距離をとることができずにあっさりと掴まってしまった。いや、狭くなくても走りにくいドレスでは逃げ切ることなどできなかっただろう。
「誰か、助け——」
アリアが叫ぼうとすると、大きな手で口を塞がれて床に押し倒された。
後頭部や肩を打ちつけたものの意識ははっきりとしている。身をよじったり叩いたり蹴ったりして必死に抵抗するが、馬乗りになられ、猿ぐつわをされ、外套を剥ぎ取られ、両手両足を縛られてしまった。
結婚指輪を落としたのも、耳飾りを落としたのも、おそらくこのときだろう。
レイモンドが木箱をどかして床下へつづく扉を引き開けると、アリアは両手両足を縛られたまま彼に突き落とされた。なすすべなく長くはない簡易的な階段を転げ落ち、全身を打った痛みに呻く。
「おまえは生きているかぎり厄災だ」
レイモンドはつぶやくようにそんな言葉を落とし、扉を閉めて鍵をかけた。ここに息絶えるまで放置し、後ほど遺体をどこかに埋めるつもりだったという。チャーチル家の敷地内であればできなくはないだろう。
扉の上に木箱を戻すと、そのとき近くに落ちていた耳飾りに気付いて拾い上げた。しかし結婚指輪が落ちていたことには気付かなかった。白い外套は一時的に物置小屋の裏に隠し、あとで処分するつもりだったらしい。
ひとり邸内に戻る道すがら、耳飾りを表玄関の外に置いて偽装することを思いついた。ひとまず自室に向かうべく階段を上ろうとしたところ、たまたま通りかかったと思われる女性使用人に声をかけられた。
「レイモンド様……あの、アリア様はご一緒ではないのですか?」
お茶会の担当なのか、アリアを庭園に案内したことを知っているようだった。心配そうに尋ねてくる。レイモンドはにっこりと人好きのする笑みを浮かべて振り向いた。
「もちろん一緒に戻ってきたよ」
「え……おひとりで戻られたように見えましたが……」
「君の見間違いだろう」
どうやら戻ってくるところも見ていたらしい。彼女の顔には疑念の色が浮かんでいる。庭で分かれたことにしておくべきだったと後悔したが、もう遅い。それでもどうにかしてこの場を切り抜けなければならない。
階段にかけていた足を下ろし、微笑を浮かべたまま彼女のほうへ向かい距離を詰める。そして怯えて後ずさりしようとした彼女を止めるように、その華奢な肩に手をかけてグッと力をこめると、身を屈めて耳元で囁く。
「余計なことは言わないほうが身のためだ……君にも秘密はあるだろう?」
彼女の秘密など何も知らない。
たが秘密を抱えている人間には匂わせるだけで効果がある。実際、彼女にも効果はてきめんだった。相当な秘密を抱えているのか、一瞬で顔面蒼白になると小さく震えながらかすかに頷いた。
「これを表玄関の外に目立たないよう置いてきてくれ。誰にも見られてはいけないよ」
そう言って彼女の手にアリアの耳飾りを握らせる。彼女は血の気が失せたまま呆然としていたが、無視はしないだろう。肩にかけていた手で念を押すようにポンポンと叩くと、二階の自室に向かった。
その後、自室の引き出しに物置小屋の床下の鍵をしまい、本を読んで過ごしていると、使用人がアリアの行方を尋ねに来たので夫人たちのところへ行った。そして直後にアイザックたちと顔を合わせることになったのだ。
「あの娘は厄災だ。彼女自身に罪はなくても生きているだけで厄災になる。この国の安寧のためには誰かが手を汚さなければならない。僕はただ、大切なものを守りたかっただけだ」
父親の聴取にレイモンドはそう語ったという。
しかしアイザックとしては首を傾げざるを得なかった。彼にそこまで愛国心があるようには思えなかったのだ。もちろん彼のすべてを知っているわけではないし、本心を隠していただけかもしれないが。
ただ、たとえ彼なりに国の未来を憂いての行動だったとしても、決して許されることではない。厄災の姫と言われたアリアを最終的に生かすことに決めたのは、この国の君主である国王陛下なのだから——。
寝台で眠るアリアの瞼が震えて、そっと目が開く。
そのままぼんやりとあたりを見まわし、寝台の横でひっそりと椅子に座っているアイザックに気付くと、ハッと小さく息を飲んだ。しかしすぐに安堵したような疲れたような力のない表情になる。
「ついていてくださらなくても大丈夫ですので」
「気にするな、わたしがここにいたいからいるだけだ」
「…………」
彼女は無言でゆっくりと天井のほうに向きなおり、うっすらと眉を寄せる。
アイザックに面倒をかけたと責任を感じているのだろう。わかっていても、いつもどおり仕事をする気にはとてもなれない。逆に申し訳ないが、いましばらくはここにいて見守らせてほしいと思う。
「いまは何も考えずに休むといい」
そう言い、慈しむように優しく頭に手をのせる。
アリアの表情がすこしやわらいだ。そのまま視線だけをこちらに向けてかすかに頷くと、素直に目を閉じ、ほどなくして静かにすうっと再び眠りに落ちていった。