それは、今にも雪が降りそうな、冷たく静謐な夜だった。
「う……ん……」
坂崎七海(さかざきななみ)は布団の中で寝返りを打ちながら、ぼんやりと眠りの海から引き戻される。どこからか大きな物音が聞こえた気がした。いつも朝まで熟睡している彼女にとって、就寝中の物音に気付いて目を覚ますなどめずらしいことだ。
時計を見ると、深夜零時をまわっていた。
おとうさんがお仕事から帰ってきたのかな——常夜灯のみがともる薄暗い中、眠い目をこすりながらもぞもぞと布団を這い出した。冷えた部屋の寒さにぶるりと身震いしつつ、一緒に寝ていた大きなイルカのぬいぐるみを引きずり、小さな手でリビングへ通じるふすまを開ける。
「……だれ?」
ぽかんと見上げた七海の口から、白い息が上がる。
正面に立っていたのはまったく知らない男だった。ガラス越しの月明かりが彼を背後から照らし出す。今までに会った誰よりも高い身長、見たこともない煌びやかな金髪、そして海を思わせる深い青の瞳。まるでテレビの中から抜け出たかのようで、現実味が感じられない。
足を踏み出すと、何か濡れたものを踏んだように感じて目を落とす。そこには黒っぽいぬめりのある水たまりが広がっていた。引きずっていたイルカのぬいぐるみも下の方が浸かっている。水たまりは正面の男にまで続いており、その足元にもうひとりの男性がうつぶせに倒れているのが見えた。
「おとうさん?」
よく似ていたのでそう呼びかけたものの反応がない。不安になるが、足を濡らす黒っぽい水たまりが気持ち悪くて、進むことも戻ることもためらってしまう。うろたえたまま立ちつくすことしかできない。
そのとき、ふいに吐き気を催すような生臭いにおいがして顔をしかめる。何が起こっているのかわからないながらも、何かとんでもないことが起こっていることを感じ取り、縋るように見ず知らずの男を仰いだ。
何の音もしない静寂。
淡い月明かりに照らされた色彩のない景色の中で、金色の髪と青色の瞳だけが不自然なほど鮮やかに色づき、神秘的な光を放っている。そして手は黒っぽいものでぬらりと濡れ、その長い指先からはきらりと輝く赤い雫が滴り落ちた。
その美しく残酷な光景は、幼い七海の脳裏に鮮烈に焼き付いた。