明日、わたしは顔も知らないおじさまと結婚するために旅立つ。だから——。
伯爵令嬢のシャーロット・グレイは部屋の窓をそっと開いた。
その向こうには雲ひとつない抜けるような青空が広がっている。降りそそぐ光はとてもまぶしい。きっと雨にはならないだろう。どうか今日だけは晴れますようにと天に祈った甲斐があった。
準備は万端だ。
この時間なら庭に使用人がいないことも確認済みだし、屋敷内から目につかない経路も調査した。今日はひとりで過ごしたいからそっとしておいて、と両親や侍女に頼むことも忘れていない。
ひとつ深呼吸をして靴を履いたまま窓枠に立つと、向かいの木に飛び移り、すぐさま軽い身のこなしで音もなく庭に降りた。動きやすさを優先した簡素なドレスなのでそう難しくはない。
ごめんなさい、最後のわがままを許して——。
誰にも見咎められることなく裏門のひとつから敷地外に出ると、やわらかなストロベリーブロンドの髪を揺らしながら、カーディフの街へと続く一本道をためらうことなく駆けていった。
「わぁ……!」
街というものを目にしたのは幼少のころ以来である。
さまざまな店が大通りにも路地にも建ち並び、老若男女が行き来し、にぎやかな声がそこかしこで上がる——それは書物にしたためられた街の様子そのもので、シャーロットは心が躍った。
「まずは軍資金ね」
大通りで立派そうな宝飾店を見つけると、躊躇なく扉を開く。
「いらっしゃいませ」
「あの、これを買い取っていただきたいのですけど」
いくつもの宝石があしらわれた美しく華奢なネックレスを取り出し、若い男性店員に差し出す。しかし彼は微笑を浮かべたまま受け取ろうという素振りすら見せず、慇懃に問いかける。
「失礼ですが、身分証を拝見させていただけますか」
「えっ」
身分証は、それなりの身分を有する成年にしか持てない。
シャーロットは未成年なので当然ながら持っていなかった。だからといってこのままあきらめたくはない。せっかく一大決心で家を抜け出してここまで来たのに、望みのひとつも叶えられないなんて——。
「わたし、あしたが十六歳の誕生日なんです。だから……」
「それでは、明日、身分証を持参のうえでお越しください」
取り付く島もなかった。
肩を落として宝飾店を出ると、待ち構えていたかのように痩せた中年男性が近づいてきた。父親よりやや年上くらいだろうか。くたびれた服に無精髭という身なりからして貴族ではなさそうだ。
「お嬢さん、宝石を売りたいのかい?」
「ええ、でも身分証がないからと断られてしまって……」
「そういうことなら裏通りの店へ行くといい」
「身分証がなくても買い取ってもらえるんですか?」
「もちろんだ、案内するよ」
親切なひとに声をかけてもらえてよかった。ほっとして胸を撫で下ろし、よろしくお願いしますとお辞儀をしたところ——。
「イテテテテテテ!」
その声に驚き、はじかれたように顔を上げる。
彼はいつのまにか背後から青年に右手を捻り上げられていた。苦痛に顔を歪ませ、必死に逃れようとしているようだがビクともしない。青年はそのまま射るように冷たく睨めつけて言い放つ。
「いますぐ失せろ」
「わかったわかった!」
青年が手を離すと、もがいていた中年男性は反動でよろけて地面に転がった。衣服や手のひらがあちこち土で汚れていたが、そのまま払いもせずによろよろと起き上がり、くやしげに青年を睨みつける。
「チッ、護衛がいたのかよ」
そう言い捨て、逃げるように路地裏へ消えていった。
「ここで客引きをするのは大抵ロクなやつじゃない。君のような世間知らずな子はいいカモだ。二束三文で買いたたかれるくらいならまだマシで、取り返しのつかない悲惨な目に遭うこともある」
「……助けてくださってありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
呆気にとられていたシャーロットはようやく我にかえり、深々と頭を下げた。
捨て台詞から考えても、おそらく中年男性は騙すつもりで声をかけてきたのだろう。しかし彼に助けてもらうまでは疑いもしなかった。だから本当に心から感謝はしているのだけれど。
「お金……どうしましょう……」
ネックレスを売る以外の手立ては考えていなかったので、いまさらどうにかできるとは思えない。しゅんとして曖昧に目を伏せていくシャーロットに、彼はどこか複雑な顔をして尋ねる。
「どうしてそこまで現金がほしいんだ?」
「わたし、結婚のために明日この地を離れる予定で」
「まさか結婚が嫌で逃亡とかじゃ……ない、よな?」
「最後に街で遊びたかっただけです」
それを聞いた彼がほっとしたように安堵の息をつき、シャーロットもつられるようにくすりと笑ったが、すぐにまた顔を曇らせる。
「でも父が過保護なので黙って抜け出すしかなくて」
「なるほど、それで手持ちの現金がないってことか」
「はい……」
シャーロットは五歳のときに王都で誘拐されたことがある。
それ以来、父親はシャーロットを王都に連れて行かなくなり、領地においてもグレイ家の敷地外に出ることを禁じた。寂しかったが、自分の身を案じてのことなので仕方がないとあきらめていた。
けれど結婚が決まるといてもたってもいられなくなった。もし結婚後も外出を許されなければ、一生、外の世界を見られない。だから親の言いつけに背いてまで抜け出してきたのだ。なのに——。
「それなら俺が協力するよ」
その言葉にハッとして顔を上げる。
青年は手を腰に当て、仕方ないと言わんばかりの微苦笑を浮かべていた。きっと困っている未成年を放っておけなかったのだろう。
「責任は俺が持つから、この子のネックレスを買い取ってもらえないかな」
ここはシャーロットが最初に訪れた宝飾店だ。
にべもなく断られたばかりなのにとハラハラしながら、青年が交渉するのをすこし離れたところから見守っていたが、当然のように店員は冷ややかだった。しかし青年が白銀の懐中時計のようなものを開いて見せると、急に態度を翻す。
「承知しました」
「じゃあ……」
そのあとの交渉もすべて青年がやってくれた。
ネックレスの鑑定が済むと、彼を経由して現金と小さなバッグが渡される。現金は使いやすいよう少し崩してあり、バッグはそれを持ち歩くために用意したらしい。どちらも彼が気を利かせて手配してくれたのだ。
「ありがとうございました」
「ああ」
宝飾店を出て、シャーロットは感謝の気持ちをこめて深々と頭を下げるが、彼はたいしたことではないかのように軽く一言で受け流した。
「俺のことはリックと呼んでくれ。君は?」
「……ロッテと」
シャーロットのことをロッテと呼んでいるひとはいない。けれど正式名を名乗ると素性が知られてしまうかもしれないと思い、念のため短縮名を告げた。答えるまでに少し間があいたものの不審には思われなかったようだ。
「ロッテ、君はこれからどうするんだ?」
「まずカフェに行って、それからお芝居を観に行くつもりです。そのあとのことはまだ決めていませんが、いろいろとお店をまわってみようかなって」
うきうきと話すと、彼はどこか言いづらそうにしながら切り出した。
「それさ、もしよかったら俺も同行させてもらえないか?」
「えっ、でもこれ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「いや、ちょうどひとりで寂しいと思ってたところなんだ」
「それでしたら、ぜひ」
恩人である彼のためになるのなら断る理由はない。
それに、シャーロットも一人より二人のほうが楽しそうだと思ったのだ。
カフェはリックが勧めてくれたところに決めた。
明るい窓際の席に通されて、彼に促されるまま向かい合わせに座る。彼は紅茶を、シャーロットはカフェオレとケーキを注文した。家ではコーヒーが出ないので一度飲んでみたかったのだ。
店内では多くのひとが楽しそうにおしゃべりに興じている。その適度なざわめきは不思議と心地よく感じた。だが方々からチラチラと視線を向けられていることに気付くと、急に落ち着かなくなる。
「心配しなくても君を見てるわけじゃない。俺を見てる」
そわそわし始めたシャーロットを目にして、彼は小声でそう告げる。
あらためて周囲を窺うと、確かにシャーロットではなく彼を見ているようだ。それも仲間内でひそかにはしゃいだり、うっとりしたり、ほんのりと頬を染めたりしながら。この反応は——。
「もしかしてリック様は有名な方なのでしょうか?」
「えっ? あ、いや、そういうわけじゃなくて……」
「宝飾店でも特別な対応をしてもらってましたよね?」
「あー……それは俺が王都の騎士団に所属してるからだな」
「騎士?!」
思わず興奮し、胸元で両手を組み合わせて前のめりになるが、彼がいささか引きぎみに目を瞬かせるのを見て我にかえった。恥じ入りながらそそくさと淑女らしい居住まいに戻ると、静かに言葉を継ぐ。
「わたし、王都で誘拐されたことがあるんですけど、そのとき騎士の方に助けていただいて。まだ五歳だったので、当時のことはうっすらとしか記憶にありませんが、それでもわたしにとって騎士は憧れの存在になったんです」
「そう、か……」
あの日以来、騎士のように強くなりたいとずっと思ってきたのだ。
リックはどこか面映ゆそうな表情になりながら、目を伏せる。その頬はこころなしか赤みを帯びているように見えた。
苦い——それが最初にカフェオレを飲んだときの感想だ。
しかし、クリームたっぷりの甘いケーキを食べながらだとちょうどよく感じる。そのうち舌が慣れてきたこともあり、ケーキにはコーヒーのほうが合うかもしれないとまで思うようになった。
「けっこう気に入ったようだな」
「はい」
コーヒーを飲むのは初めてだとあらかじめ断っていたので、リックは興味本位で観察していたのだろう。ティーカップを戻しながら面白がるように口の端を上げる。
「道具さえあれば家でもコーヒーを淹れられるぞ」
「ええ、でも嫁ぎ先であまりわがままは言えませんし」
「……なあ、君の婚約者ってどういうひとなんだ?」
「まだ会ったことがないのでわからないんです」
シャーロットは肩をすくめて答えた。
「急に決められた結婚なので。相手は父と同じ年齢の侯爵様だと聞いています。悪い奴ではないと父は言っていましたが……その……ここだけの話にしてもらえます?」
「ああ」
彼が頷くと、内緒話をするように口の隣に右手を立てて小声で告げる。
「その方、どうやら男色家らしくて」
「えっ……」
「十年前、それに目覚めて一度婚約を破棄しているんだそうです。でも嫡男なので、家存続のために仕方なく結婚することにしたんだろうって。両親がこっそり書斎でそう話しているのを聞いてしまって」
彼は唖然としたまま身じろぎもせずに聞いていたが、話が終わると困惑したような混乱したような怪訝な顔になり、再びティーカップに手を伸ばす。
「それってただの噂だったりしないのか?」
「いえ、父は実際その方に懸想されているらしいです」
「ブフッ」
シャーロットが答えた瞬間、彼は飲みかけていた紅茶を吹きそうになった。いや、すこし吹いた。幸いシャーロットにはかからなかったが、彼はハンカチで口元を拭いながらすまないと謝罪して、眉をひそめる。
「まさか、父上の身代わりとして君が望まれたとかいうんじゃ……」
「父はおそらくそうではないかと推測していました。先方がこの結婚を強く希望したらしくて。父としては断りたかったけれど、事情があって受け入れるしかなかったそうです」
彼はチッと舌打ちし、顔をしかめたまま肘をついて額を押さえる。
「君は、嫌じゃないのか?」
「心配ではありますけど、わたしと向き合ってくださるのならそれで十分です。せっかく家族になるのですから仲良くしたいですし、そのためにはこちらが心を閉ざしていてはいけませんよね」
それはまぎれもない本心だ。
両親も家の都合で結婚を決められたそうだが、互いに互いを大切にしているのが傍目にもわかる。だから自分たちもそんなふうになれたらいいなと思ったのだ。
「…………」
彼はシャーロットの楽観的な考えに納得がいかなかったのか、ますます険しい面持ちになった。しばらくそのまま身じろぎもせずにじっと考え込んでいたが、やがてパッと顔を上げて力説する。
「よし、今日は思いっきり楽しもう!」
「え……あ、はい」
一瞬、シャーロットは当惑して目をぱちくりさせたものの、すぐに笑顔で応じた。
カフェを出ると、もうひとつの目的である観劇に向かった。
大人気公演にもかかわらず運良く二つ並びの席が取れた。角度がついていて見づらいバルコニー席だが文句は言えない。彼と並んで座り、けれどまっすぐ食い入るように舞台だけを見つめる。
それは想像をはるかに超えていた。ただ単にストーリーをなぞるように演じていくのではなく、歌と踊りも織り交ぜられていて、現実からかけ離れているのにどんどん引き込まれてしまうのだ。
ただ、ストーリーには共感しがたい部分もあった。ヒロインが政略結婚の前夜に恋人と駆け落ちするという場面では、残されたひとたちのことばかり考えてしまい、物語に集中できなかった。
そもそもシャーロットには恋がわからない。恋愛小説を読んでもどこか遠い世界のこととしか感じられないし、そんなに素敵だとも思えない。どうしてみんな恋をしたがるのか不思議だった。
「君は……その……好きなひとがいたりしないのか?」
「いませんよ」
好きなひとがいたら、いまごろは絶望的な心境になっていたかもしれない。結婚相手ときちんと向き合おうとも思えなかっただろう。あのヒロインのように恋人と駆け落ちしていた可能性もある。
だから、きっと、恋を知らないままでよかった——。
シャーロットは軽やかに劇場前の階段を駆け下りると、ふわりと身を翻して笑った。
観劇のあとは、昼食にしようと中央広場で移動販売のサンドイッチを買った。
シャーロットの知っているサンドイッチとは違い、バゲットにハムとチーズと野菜を挟んだもので、どうやって食べるのかわからなかった。
「そのままかぶりつくんだよ。君の小さい口ではちょっと難しいか?」
「大丈夫です」
こんな経験はなかったのでいささか抵抗はあったが、彼にならってかぶりつく。しかしやはり口が小さくて少しずつしか食べられない。その様子を、早々に食べ終えてしまった彼がずっとニコニコと見ていた。
「あの、あまり見られると恥ずかしいです……」
「ほかにすることがないからな」
堂々とそう返されてしまうと何も言えなくなる。なるべく彼のほうから意識をそらしながら黙々と食べ進め、最後にはだいぶ口まわりが疲れてしまったが、どうにかきれいに完食した。
「これ、とてもおいしかったです」
「気に入ってもらえてよかったよ」
「ほかにもいろいろ売ってるんですね」
「ジェラートでも食べるか?」
「いえ、おなかいっぱいなので……」
残念に思っていると、彼はふっと頬をゆるめて抜けるような青空を仰いだ。
「またいつか来ればいいさ」
いつか——。
そんな日は永遠に訪れないかもしれないけれど。シャーロットはうつむきそうになるのを堪えて、ただうっすらと曖昧に微笑んだ。
「さてと、あとは店を見てまわりたいんだったか?」
昼食を終えると、噴水のそばを歩きながらリックがそう尋ねてきた。シャーロットが最初に話したことを覚えていたらしい。
「はい。いろいろなお店があるらしいので楽しみにしていました」
「裏通りは怪しい店も少なくないからやめたほうがいい。大通りを歩こう」
「わかりました」
中央広場のすぐそばが大通りになっている。二人はそちらへ向かい、きれいに整備された石畳を並んで歩いていく。
「何か買いたいものはあるのか?」
「そうですね……家族へのおみやげを買いたいです」
「ん? それだと抜け出したことがバレるんじゃないか?」
「帰ったら正直に話して謝罪するつもりですから」
「そうか……」
叱られることは覚悟のうえだ。
どうしても行きたかったので騙すようなかたちで抜け出してきたが、それがいけないことだというのはわかっている。たとえ気付かれなくても嘘をついたまま別れてしまうのは嫌だった。
「あ、このお店を見てみたいです」
複雑そうな顔をしている彼には気付かないふりをして、軽やかに駆けていく。
そのあとも興味をひかれた店をいろいろと見てまわった。服飾店では様々なデザインのドレスが飾られていてわくわくしたし、ワインを取り扱う店ではこんなにも種類があるのかと驚いた。
もちろんおみやげのことも忘れていない。まずハンカチ専門店で家族それぞれに似合いそうなハンカチを購入した。そして紅茶が好きな父親のために茶葉も追加しようと決めたのだが。
「こんなに種類があるんですね……」
紅茶専門店に入ると、ずらりと並んだ茶葉に圧倒されてしまった。
ひとつひとつ名前は書いてあるものの、そもそも茶葉を知らないので味も香りもわからないし、どれが父親の好みに合うのかなんて見当もつかない。
「いつも飲んでるのがどれだかわかるか?」
「いえ、主にノンフレーバーでたまにフレーバーなんですけど」
「だったら……」
彼はひとつひとつ説明をしながらいくつか勧めてくれた。稀少なのであまり日常的には飲まないものだったり、めずらしいが癖のないフレーバードティーだったり、おみやげとしてよさそうなものばかりだ。
「この三つにします」
かなり悩んだが、シャーロットが飲んでみたいと思うものを選んで購入した。
店を出ると、あてもなく足を進めながらどうしようかと考える。ひととおり大通りは歩いたし、おみやげも買った。でもまだ帰りたくない。ほかに何かすることがあればいいのだけれど——。
「自分のものは買わなくていいのか?」
「そうですね……」
せっかくの助け船だが、これといって欲しいものが思いつかない。
そもそも明日には嫁ぎ先に向かうのだ。相手方の希望により身ひとつで嫁入りすることになっているので、買っても置いていくしかない。いや、ごく小さなものであれば許してもらえるだろうか。
「あのお店を見てみてもいいですか?」
「もちろん」
さきほどは通りすぎた雑貨店に足を踏み入れる。
ここならいろいろと小物があるはずだ。必ずしも何か買おうという気はなく、ただ純粋に欲しいと思えるものが見つかれば買いたい。そんなつもりで店内をのんびりと見て歩いていると。
あ、これ——。
いくつか並べられていた指輪のひとつにふと目を奪われ、足を止めた。
銀色の細い流線型のリングに紫色の小さな宝石がはめ込まれている。それほど質の高いものではなさそうだが、デザインが素敵だった。そして角度により違って見える紫の宝石がとてもきれいだった。
「それ、気に入ったのか?」
「ええ……買いませんけどね」
「だったら俺に贈らせてくれ」
「えっ?」
彼は返事も待たず、その指輪を手にとって店員のところへ持っていこうとする。シャーロットはあわてて彼の腕をつかんで引き留めた。
「いけません!」
「高いものじゃない」
「そうではなくて」
そこで一呼吸おき、あらためて強く真剣なまなざしで彼を見据える。
「わたし、あしたには嫁ぎ先に向かうんです。そこに他の男性からの贈り物なんて持っていけません。それも指輪だなんて……自分で買わないのも変に誤解されたくなかったからです」
そう訴えると、彼は落ち込んだように顔を曇らせてうつむいた。
「悪い、今日の記念にと思ったんだ」
「わかっていただければ……」
焦っていたとはいえ、言い方がすこしきつくなってしまったかもしれない。
今日の記念にという彼の気持ちは素直にうれしく思っている。断らなければならなかったことが心苦しい。むしろこちらがお礼をしなければいけないくらいなのに——。
「そうだわ! わたしのほうからリック様に何か贈らせてください。今日の記念とお礼をかねて。リック様のおかげで街を楽しむことができましたし、お父さまへのおみやげも買えました」
いいことを思いついたと両手を合わせ、声をはずませる。
彼も最初こそ驚いたように目を見開いていたが、お礼だと聞くと納得したのか、うれしそうに表情をゆるませていく。
「じゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「はい!」
シャーロットは心のまま元気よく返事をした。
どうしましょう——。
しかし、いざ何を贈ろうか考えてみると途方に暮れてしまった。この年代の男性が喜びそうなものなんて見当もつかない。趣味嗜好をよく知っている相手ならともかく、彼とはまだ出会ったばかりなのだ。
大通りを歩きながら、こっそりと横目で隣のリックを観察する。
年齢は二十代半ばから後半くらいだろうか。さらりとした癖のない黒髪に、くっきりとした目元、きりっとした眉毛、すっと通った鼻筋、形のいい薄い唇——客観的に見ても美しく端整な顔だと思う。
背もかなり高くて、細身ながらしっかりと筋肉がついている均整の取れた体型だ。王都の騎士団に所属する騎士とのことなので鍛えているに違いない。騎士の制服もきっと似合うのだろう。
もっとも、今日はシャツとパンツにベストを合わせただけの簡素な私服だ。ただ、その仕立てや布地からはかなり上質なものであることが窺える。もしかするとあつらえたものかもしれない。しかし——。
「贈り物、カフリンクスはいかがですか?」
「これか……そろそろ買い換えたいと思ってたところだし、ロッテが贈ってくれるならうれしいよ」
その返事に、シャーロットは安堵の息をつく。
全体的に上質そうな装いの中で、袖口についた飾り気のない小さなカフリンクスだけがくたびれて見えたのだ。あちらこちらについた細かい傷のせいで輝きが失われていたからだろう。
さっそくカフリンクスを扱ってそうな店を探して、二人で入る。
しかし、陳列棚を見ても彼に贈りたいと思えるものはなかった。ただ店員によれば、他にもいろいろと店頭に出していない品があるので、要望さえ伝えてくれれば出すとのことだった。
彼には丸いものよりも角張ったものが似合うだろう。そして金色よりも銀色だ。邪魔にならないよう小さめのほうがいいはず——さっそくいくつかカウンターに出してもらって吟味する。
「うーん……」
「こういうものもございますが」
どれも悪くはないけれど決め手に欠けて、どうしようかと悩んでいると、店員がもうひとつ追加で奥から持ってきてくれた。それを見た瞬間、雷に打たれたように心を鷲掴みにされてしまった。
「リック様、これはいかがですか?」
「いいね」
彼も屈託のない笑顔で同調した。
それは白銀で小さな長方形の飾りがついたものだ。そこには直線的な模様が刻まれていて、シンプルながらシャープで洗練された印象を受ける。間違いなく彼に似合うと直感したのだ。
これにしますと店員に告げて包んでもらう。衝動のまま値段を確認せずに決めてしまったので、支払い時に思いのほか高価とわかって焦ったものの、どうにか手持ちの現金で足りた。
「ありがとうございました」
店員に丁重に見送られながら二人は大通りに出た。
贈り物の入った手提げ袋はまだシャーロットの手にある。しかしいまここで渡すのも味気ない気がして、中央広場に行きましょうと誘い、そこであらためて彼と向かい合って手提げ袋を差し出す。
「これ、わたしの気持ちです」
「ああ……」
彼は優しい顔をして受け取ると、ふいと何か物言いたげなまなざしになり、感情を抑えたような声で言葉を紡いでいく。
「ロッテ……今日、ここで君に出会えてよかった」
「はい……」
わたしも、と言いかけてシャーロットは口をつぐんだ。
それくらいなら言ってもよかったのかもしれないが、あの舞台劇が頭をよぎり、何とはなしに後ろめたい気持ちになってしまった。それでもどうにか気を取り直すと、言葉にできない気持ちをこめてにっこりと微笑んでみせた。
「あっ!」
直後、見知らぬ若い男がリックにぶつかった。
その拍子に、彼が持っていたカップからジュースらしきものがこぼれて、リックの衣服にかかった。白いシャツの袖からはオレンジ色の液体が滴り落ちている。
「ああっ、すみません!!」
「いいよ、仕方ない」
勢いよく謝罪する若い男に、リックは苦笑しながら軽く手を上げてそう応じた。しかしながら若い男はどういうわけか必死に食らいつく。
「そのシャツ僕に洗わせてください!」
「え、洗う……?」
「泊まってる宿がすぐそこなので」
「いや、そこまでしてくれなくていい」
「それじゃあ僕の気がすみません!」
「だが、連れもいるし……」
「できるだけ急いでやりますので!」
リックが困惑するのも構わず、上目遣いで見つめたままグイグイと距離を詰めていく。この様子では断るほうが時間がかかるかもしれない。
「……わかった」
リックもそう思ったのか、疲れたように溜息をついて承諾の返事をした。
宿は、中央広場からすぐ近くの大通りにあった。
大通りにあるということはきちんとした宿なのだろう。実際、年季が入っているものの手入れは行き届いているようで、老舗といったおもむきだ。昼間だからか晴天だからか入口の扉は開け放たれている。
「お嬢さんはこちらでお待ちくださいね」
玄関に入ると、若い男——ジョンと名乗った——はシャーロットにそう告げた。
彼の客室に行くのなら、未婚女性である自分がついていくのは確かに良くない。わかりましたと応じたものの、ひとり待たされることになるとは思わなかったので、若干、心細く感じてしまった。
リックはそれを察したのだろう。なるべく早く戻るよと安心させるように微笑み、受付の男性従業員にシャーロットのことをよろしく頼むと、ジョンに急かされながら階段を上がっていった。
「どうぞ、おかけになってください。ハーブティーはいかがですか?」
「ありがとうございます、いただきます」
男性従業員に声をかけられ、シャーロットは淡く微笑んでカウンター近くの席に座る。
そこは宿泊者が待ち合わせなどに使うための場所らしく、こぢんまりとしているが、いくつか丸テーブルがあってカフェのようになっていた。いまは他に誰もおらずひっそりとしている。
「どうぞ」
しばらくして女性従業員がハーブティーを運んできた。
シャーロットはお礼を言い、階段のほうを眺めながらハーブティーに口をつける。そのさわやかな風味にほっと息をついた、そのとき。
「やめてください!! 許してくださいっ!! ああーーーッ!!!」
そんな悲鳴とともに激しい物音が上階から聞こえてきて、ビクリとする。
すぐに転がり落ちんばかりの勢いでジョンが階段を下りてきた。シャツは破れ、ボタンもちぎれ、前がはだけて白い素肌が露わになっている。それを追うようにリックも上半身裸であわてて下りてくる。
「どうなさいました?」
受付の男性従業員が驚いて、様子を窺うためにカウンターの中から出てきた。
ジョンはその背中に隠れるようにまわり込んで縋り付く。
「助けてください! あのひとに服を洗うからと脱いでもらったら、いきなりベッドに押し倒されてシャツを破かれて、もうすこしで襲われるところだったんです!」
「俺は何もしていない。こいつが急に一人芝居を始めたんだ」
「嘘です! 嫌だって言ったのに、押さえつけてキスして体をまさぐってきたじゃないですか! 僕が隙をついて逃げ出さなかったら強姦されてました!」
二人しかいない室内で起こった出来事なのだ。リックの話、ジョンの話、どちらが真実かなど証明しようがないだろう。けれど——。
「それはおかしいですね」
「えっ?」
怪訝に振り返ったジョンを、シャーロットは射るように見据えてすっと立ち上がる。
「わたしがここで待っていることも、宿の方がここにいらっしゃることも、リック様はご存知でした。それなのに軽率に襲ったりするでしょうか。悲鳴も物音も丸聞こえなくらい近い部屋なのに」
「それはっ……あのひとが男色のケダモノだからです! 我慢できなかったんです!」
後ろのリックを指差しながらジョンは必死に言い募る。だが、もはやそれは逆効果でしかない。
「リック様が男色かどうかは存じ上げません。ですが、いずれにしてもそのような無体を働く方ではないと、わたしは信じています」
「ぐっ……」
反論はつづかなかった。その表情からも、声からも、追い込まれている様子が見てとれる。やがてあたりがしんと静まりかえったそのとき——。
「ジョン! プランBよ!!!」
どこからか切り裂くような声が響いた。
ジョンはわずかに顔をしかめて苦しげな表情を見せたが、それは刹那のこと。すぐさま迷いを振り切るようにシャーロットに襲いかかる。
「ロッテ!!!」
リックは一瞬だけ出遅れた。しかしながら互いの距離が近いだけにその一瞬がとても大きい。全力で駆け出したときには、すでに大きく伸ばされたジョンの右手がシャーロットの胸元に届き——。
ドタドタガシャン!!!
目の前の光景に、その場にいたひとたちは一様に唖然とした。
襲いかかったはずのジョンのほうが吹っ飛んでいたのだ。いくつもの丸テーブルと椅子を豪快になぎ倒し、その上に仰向けに倒れたまま、起き上がることもできずに苦痛に顔をゆがめている。
「えっ、と……」
リックはまだ何が起こったのか理解できずにいるらしい。理解できないというより信じられないのだろうか。シャーロットは乱れたドレスの裾を直して姿勢を正すと、にっこりと微笑む。
「わたし、武術を少々たしなんでおります。主に身を守るためのものですけど」
男性とまともに組み合ったら勝ち目はないだろうが、襲いかかってくる相手から身を守る術なら心得ている。特に、考えもなしに突進してくる相手であれば難しくない。相手の勢いを利用して投げるだけでいいのだから。
リックは目を見開き、そしてようやくほっとしたように息をついた。
そのあいだにジョンは見知らぬ青年に後ろ手で拘束されていた。もうあきらめたように憔悴した顔でおとなしくしている。そして、入口で指示した女性もまた別の見知らぬ青年に拘束されていた。
「痛っ! 乱暴にしないで!!」
ただ、こちらは往生際が悪く、髪を振り乱してヒステリックにわめき散らしている。
その声につられるように振り向いたリックは、彼女の姿を目にするなり怪訝に眉をひそめ、そのまま近づいていくと身をかがめて覗き込んだ。
「おまえには見覚えがある。ロゼリアの侍女だな。俺を陥れるよう命じられたか」
「…………」
彼女は顔をそむけた。その表情からも、顔色からも、図星を指されて焦っていることは明白である。リックは冷ややかに見下ろしたまま何か言いかけたものの、ドタドタと派手な足音に遮られた。
「何があった?」
入口から踏み込んできたのは衛兵と思われる二人組だ。騒ぎを聞きつけたのか、混沌とした光景を見まわして誰にともなく高圧的に尋ねる。しかし上半身裸のリックが白銀の懐中時計らしきものを開いて見せると、はじかれたように敬礼した。
「この件はこちらで預かりたい。拘束する場所だけ貸してもらえないか?」
「承知しました」
衛兵が先導し、見知らぬ青年二人がそれぞれ拘束した二人を連行していく。
その途中でリックは片方の青年に何やら耳打ちをした。おそらく互いによく見知った間柄なのだと思うが、この青年二人が何者なのか、なぜ都合よく現れたのか、シャーロットには何もわからないままだった。
「すまない、君を巻き込んでしまって」
宿の一階で、リックは神妙な顔をしてシャーロットの向かいに座っていた。
いまはもう上半身裸でなく新しいシャツを着ている。実は、彼もきのうからこの宿に泊まっていたのだという。それで荷物の置いてある自分の客室にいったん戻り、シャツを着てきたのだ。
袖口には先ほど贈ったばかりのカフリンクスがついている。やはりというかとてもよく似合っていた。さっそくつけてくれたことがうれしくて胸が熱くなるが、いまは言及できる雰囲気ではない。
「おそらく俺の元婚約者ロゼリアの仕業だ。彼女とはいわゆる政略結婚をすることになっていたが、彼女の家が不正を働いていたことが発覚して婚約を解消した。それを恨んでのことだろう」
「そうでしたか……彼女もおつらかったのでしょうね」
「しかし、まさか十年も経ってこんなことを仕掛けてくるとはな。不正は内々に処理したから公にはならなかったし、それもあって彼女は他家に嫁ぐことができたと聞いていたんだが」
もしかしたら、他の誰でもなくリックと結婚したかったのかもしれない。
そう思ったものの根拠があるわけではないし、何となく彼に言いたくない気持ちもあって、シャーロットはうっすらと微笑んで話題を変える。
「連行していった方たちとはお知り合いなのですか?」
「あー……なんていうか……まあ、お目付役みたいなもんだな。来るなと言ったが勝手についてきた。いつもついてくるわけじゃないんだが、今回は特別で……」
まるでイタズラの言い訳でもしているかのように、気まずげに目を泳がせながらしどろもどろになる彼を見て、思わずくすっと笑う。
「来てくださって助かりましたね」
「まあ、結果的にはな」
彼はすこし不服そうに口をとがらせていたが、さて、と真面目な顔になって椅子から立ち上がると、シャーロットのまえにすっと手を差し出した。
「君はもう帰ったほうがいい。送るよ」
「はい」
その手をとってシャーロットも立ち上がった。
日が傾きかけているのでそろそろ帰る頃合いだろう。充実した一日を過ごすことができて思い残すことは何もない。そのはずだから——胸によぎった寂寥感には気付かないふりをした。
なんと、リックは白馬で街に来ていたそうだ。
その白馬で送ってくれるというので素直に甘えることにした。前にシャーロットを乗せて、後ろで彼が手綱を握る。安全のためか、疾走することなく軽やかな歩みで進んでいくのだが。
すごく、近い——。
あたりまえだが二人乗りなのでところどころ密着していて、彼の体温や筋肉、息づかいまで感じてしまって落ち着かない気持ちになる。父親と二人乗りしたときは特に何とも思わなかったのに。
「ロッテ、怖いなら無理しなくていいからな」
「大丈夫です」
背後からの気遣うような声にドキリとしながらも、乗馬を怖がっていると思われたことが心外で、誤解を解こうと振り向くと——心配そうに覗き込んできた彼と至近距離で目が合った。
えっ——。
瞬間、幼い日のことがぶわりと色鮮やかに脳裏によみがえった。思わず息が止まりそうになり、どうにか前を向いてゆっくりと呼吸をするものの、鼓動は次第に速くなり喉もカラカラに渇いていく。
「……わたし、いま思い出しました」
そう声を絞り出すと、背後でリックがこころなしか体を硬くしたように感じた。ドクンと壊れそうなくらい心臓が収縮するが、あえて何も気付かないふりをして慎重に話をつづける。
「誘拐されたとき、とある騎士様に助けていただきましたが、あのときもこうやって白馬に乗せていただいて……わたしを見つめる騎士様の瞳は、アメジストのようにきれいな紫色でした」
そこまで言うと、そっと息を詰めて再び振り返った。
「リック様も同じですね」
紫色の瞳はとてもめずらしいと言われている。
王都の騎士で、瞳が紫色で、年齢的にも当てはまるひとが、そう何人もいるとは思えない。じっと目をそらさずに無言で答えを求めていると——リックはふっとやわらかく頬をゆるめた。
「騎士様みたいに強くなりたいと言っていたが、本当に強くなったんだな」
「……がんばりました」
目頭がじわりと熱くなって涙がにじみ、前に向きなおる。
それきり二人の会話は途絶えた。背後の彼がどういう表情をしているのか気になったものの、何となく振り返ることができず、自邸へとつづく一本道をただ静かに馬に揺られて進んでいった。
「お嬢さまーーー! どこですかぁーーー!!!」
敷地の近くまで来ると、シャーロットを捜しまわる侍女の声が聞こえてきた。
どうやら部屋にいないことに気付かれてしまったらしい。だが比較的のんきな声で敷地内を捜しているということは、まだそれほど大事にはなっていないのだろうと、ひとまずほっとした。
「ここからはひとりで帰ります」
「わかった」
一本道の脇のほうに馬を止めて下ろしてもらうと、預けていた荷物を受け取り、あらためてすっと背筋を伸ばして彼と向かい合う。
「わたし、今日のことは一生忘れません」
そう告げて、淑女の礼をとり精一杯の笑顔を見せた。
そのとき彼が何か言いたそうな顔をしていることに気付いたが、振り切るように身を翻して走り去る。追いかけてくる気配はないのに全力疾走が止まらない。息が、胸が苦しくてたまらなかった。
翌日、十六歳になったシャーロットは、嫁ぎ先であるウィンザー公爵家に向かった。
しかし、そこに夫となる三十六歳の男性はいなかった。
普段は王都に住んでおり、シャーロットたちに合わせて帰ることになっていたが、外せない仕事があるとかで遅れているという。だが、三日後の結婚式には必ず間に合わせるとのことだった。
ただ、義理の両親となるウィンザー公爵夫妻は諸手を挙げて歓迎してくれた。ようやく結婚する気になった嫡男の婚約者を逃がすまいとしているのか、とてもかわいがってくれるのだ。
「え、騎士なんですか?」
「そうなのよ。それも騎士団長にまでなってしまったのよね。わたしとしては危険な仕事だからやめてほしいのだけど、まだ当分やめる気はないみたい。公爵家の嫡男としての仕事もあるのに困ったものだわ」
結婚式の準備の合間には、ウィンザー公爵夫人がたびたびお茶に誘ってくれた。
そのときの歓談で初めて婚約者が王都の騎士であることを知った。父親からは名前と年齢くらいしか聞かされていなかったし、シャーロットもあえて詳しく尋ねようとはしなかったのだ。
この事実を一昨日であれば無邪気に喜んだかもしれない。けれど——騎士団長というのはリックの上司にあたるのだろう。今後、団長の妻として彼と顔を合わせる可能性を考えると、複雑な気持ちになった。
「あなた、もしかして故郷に好きなひとがいるのかしら」
「えっ?」
紅茶に目を落としたまま考え込んでいたシャーロットは、はじかれたように顔を上げる。ウィンザー公爵夫人は優しくも寂しそうに微笑んでいた。
「なんだかそんな顔をしていたわ」
「いえ、好きなひとなんて……」
恋なんて知らない——そのはずなのに、リックの姿が脳裏に浮かんでズキッと胸が痛くなる。ひどく後ろめたくて、顔を見られたくなくて、言葉を詰まらせたまま再びうつむいてしまった。
「ごめんなさいね、あの子、早くあなたと結婚したいと必死だったのよ。陛下に縁談の口添えまで頼んで、あなたの社交デビューも待たず、婚約期間もほとんどなくて……心の準備をする時間もなくて大変だったと思うわ」
「…………」
彼がこの結婚を強く望んだのは、シャーロットの父親に決して成就することのない恋心を抱いているからだ。そしてシャーロットもまた他の男性を心にとどめたままでいる。それでも——。
「わたしは……互いに大切に思い、信頼し合える夫婦になろうと思ってここに来ました。せっかくご縁があったのですから仲良くしたいです。だからウィンザー侯爵様ときちんと向き合いたいと思っています」
しっかりと顔を上げて決意を述べる。
「そう……ありがとう」
ウィンザー公爵夫人は安堵したように息をつき、やわらかく微笑んだ。
「お嬢さま、とてもおきれいです」
結婚式当日、シャーロットは純白のウェディングドレスを身にまとった。
シルクチュールを使ったシンプルな形のロングスリーブドレスには、エンブロイダリーレースとビーズが贅沢に施され、美しく清楚でありながら豪奢な仕上がりになっている。それに合わせてメイクも華やかな清楚系だ。そしてゆるくまとめ上げられたストロベリーブロンドには、長いベールがかぶせられていた。
支度をした侍女たちは皆一様にうっとりとしている。ただ単に美しいから見とれているというわけではなく、自分たちの仕事に満足し、とても誇らしく思っているであろうことが窺えた。
一方で両親は複雑そうだ。きれいだと喜びながらも、ときどきふと我にかえったように悲しそうな苦しそうな表情になる。この一方的な縁談を断れなかったことに責任を感じているのだろう。けれど——。
「お父さま、お母さま、これまで本当にありがとうございました。わたし、お二人のように幸せになります。だから、どうか心配なさらず笑って送り出してください」
そう告げてシャーロットはふわりと笑う。
二人は戸惑ったように互いにぎこちなく顔を見合わせたものの、娘としての最後の願いを叶えようとしてくれたのか、寂しくも慈しむような笑みを浮かべてシャーロットに向きなおった。
色鮮やかなステンドグラスの光が落ちる教会に、オルガンの音色が響く。
結局、婚約者とは挨拶もできないまま結婚式を迎えた。戻ってきたのがギリギリだったのだ。それでも急いで支度をして間に合ったと聞いている。いまはもう向かいで待機しているのだろう。
新郎新婦は、それぞれ両側から中央の祭壇へ向かうことになっている。
シャーロットはベールを下ろしたままゆっくりと足を踏み出した。向こう側から新郎も歩き出した。視界がベールで霞んでいるため明確にその姿はわからないが、かなりすらりとして見える。
二人は同時に祭壇のまえに到達し、足を止めた。
シャーロットが目を伏せたままその場で片膝をつくと、新郎が一歩前に進み、丁寧な所作でそっとウェディングベールを上げた。そして新郎が一歩下がったのを確認して立ち上がり、前を向く——。
「…………ッ!!」
声を出さなかった自分を褒めたい。
そこにいたのは、先日、カーディフの街で出会ったあのリックだった。そっくりなだけの別人かとも思ったが、彼がふっと意味ありげに口元を上げたことで、間違いなく本人だと確信する。
どうして、どういうこと——?
ひどく混乱したそのとき、新郎の名前がリチャード・ウィンザーだということを思い出す。リチャードだからリックと名乗ったのだろうか。シャーロットがロッテと名乗ったのと同じように。
わたしのことを知っていたの?
街で出会ったのは偶然なの?
本当にお父さまに懸想しているの?
わたしは、わたしのことは——。
様々なことが走馬燈のように脳裏を駆け抜けていき、ますます混乱する。
心ここにあらずで気付けば誓いの言葉も終わっていた。誓います、と司祭に促されて答えたことだけはかろうじて覚えている。
「指輪を交換してください」
彼は真面目な顔のままシャーロットの手をとり、プラチナの指輪をはめた。シャーロットも彼に指輪をはめる。それで指輪交換は終わりのはずなのに、彼は再びシャーロットの手をとった。
「えっ?」
プラチナの指輪に重ねてもうひとつ指輪をはめる。銀色の細い流線型のリングに、紫色の小さな宝石がはめ込まれていて——それは、シャーロットが街で惹かれたあの指輪に違いない。
顔を上げると、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
それだけでどうしようもなく胸が熱くなる。どんな相手でも幸せになる努力をしようとは思っていたけれど、本当の本当にこのひとと結婚するのだとしたら、きっと、すごくうれしい——。
「それでは誓いのキスを」
その言葉にドキリとして鼓動が早鐘を打ち始めた。端整な顔が近づいてきたことに気付くとあわてて目を閉じる。やがて互いの息がふれあうのを感じてとっさに呼吸を止めた、そのとき。
「十年、君を待っていた」
そっと、シャーロットにだけ聞こえるような声でささやく。
驚いて思わず目を開けてしまったと同時に唇が重なり、すぐに離れていく。いろいろとついていけずにきょとんとするシャーロットを、彼は愛しさがあふれるような甘いまなざしで見つめて、声をかける。
「行こう」
彼が差し出した手に、シャーロットはいまだ当惑したまま手をのせた。
参列者の祝福を受けながら、二人はゆっくりと中央の通路を進んでいく。開け放たれた入口から外に出ると、雲ひとつない青空の下、集まっていた大勢のひとたちからわっと歓声が上がった。
「あとで、きちんと説明してくださいね」
喧噪にまぎれるように、隣のリック、いやリチャードを横目で見上げてそう告げる。ほんのすこしだけ唇をとがらせて。彼は前を向いたまま目を細めてふっと笑った。
「すべて正直に話すよ」
そう答えるなりひょいとシャーロットを横抱きにして、額にキスをする。
観衆が大きく沸き立つ中、シャーロットは顔が熱くなるのを感じながら、恨めしげに彼を睨む。それでも幸せそうに顔を輝かせている彼と目が合うと、つられるように笑ってしまった。
高く遠く澄みわたった青空に色とりどりの花びらが舞い、二人を包む。その鮮やかな光景のせいか、やわらかな香りのせいか、シャーロットは何か無性に胸がくすぐったくなるのを感じた。