伯爵家の箱入り娘は婚儀のまえに逃亡したい

エピローグ 〜 公爵家の幼妻は旦那様と仲良くしたい

 宴が一段落すると、シャーロットは夫のリチャードとともに引き上げた。
 すぐに侍女の手を借りながら湯浴みをして寝衣に着替える。公爵家が用意したそれは膝下丈のゆるりとしたドレスで、薄地のシルクながらも身頃の透け感はそれほどなく、繊細なレースやフリルがあしらわれた上品で可愛らしいものだ。
「若奥様、緊張なさってますか?」
「平気よ」
 気遣わしげな侍女にニッコリと微笑んでみせる。
 さすがにこういう状況なのですこし緊張しているものの、落ち着いてはいると思う。ただ若奥様と呼ばれることにはまだ慣れておらず、何となくむず痒いような気持ちになってしまった。
「行ってくるわ」
 そう言い置き、侍女に見送られつつ寝室へつづく扉を開ける。
 明るい——。
 てっきり薄暗くなっているものとばかり思っていたが、普通に灯りがついていた。
 寝台にはリチャードがひとりで腰掛けている。手に持っている何か小さなものを見ていたようだが、シャーロットが扉を開けるとすぐに振り向き、ふっと目を細めて笑った。
「すみません、お待たせしましたか?」
「いや」
 彼は自分の隣をぽんぽんと叩いて、おいでと言う。
 シャーロットは扉を閉め、素直に示されたところまで歩いていくと腰を下ろした。そのとき彼の手にしているものがチラリと視界に入った。どうやら紙片の束のようだ。
「もしかしてお仕事でした?」
「これは違うよ」
 そう笑いまじりに答えながら手渡され、瞬間、小さく息を飲む。
 そこには幼いころの自分自身の顔がうつっていた。おそらく初めて写真を撮ったときのものだろう。まだ五歳くらいで、何もわからないまま写真技師に撮影されたことを、おぼろげながら覚えている。
 あわてて一枚ずつ確認するが、他もすべてシャーロットを被写体にした写真だった。幼少期から最近まで成長を追うようにそろっている。ただ、染みがついていたり波打っていたりと傷んでいるものが多い。
「ずっと大切にしてた俺の宝物」
 彼はシャーロットの手からまとめてそれを抜き取ると、サイドテーブルに置いた。
 どうしてあなたが——ずっとというくらいだから、婚約してから譲り受けたわけではないのだろう。そのときどきで手に入れていたのかもしれない。いずれにしても入手先として考えられるのはひとつだ。
「父から?」
「そう、あの誘拐事件のあとアーサーに頼んで写真をもらってたんだ。そのためにつきまとってたから懸想してるとか誤解されたんだろうが、事実無根だからな。俺が好きなのは今も昔もシャーロット、君だけだ」
 躊躇いもなくまっすぐに目を見つめながらそう言われ、鼓動が跳ねる。しかしながら素直にすべてを信じることはできなかった。
「本当に、十年前から……?」
「初めて会った誘拐事件のときに好きになったんだ。君と確実に結婚できるように、騎士団長にまでなって陛下の口添えをいただいた」
 とても嘘を言っているようには見えないが、事件当時のシャーロットはまだほんの五歳である。そんな小さな子供を異性として好きになったうえ、十年もかけて結婚を画策するだなんて——。
「悪いな、結婚をなかったことにはしてやれない」
 シャーロットが微妙な面持ちのまま考えをめぐらせていると、彼は自嘲まじりにそう言い添えた。あわててシャーロットは弾かれたように「いえ」と声を上げた。
「わたしは結婚をやめたいだなんて思っていません。ただ、リチャード様が失望してしまわないかと心配していたのです。いまはもう、あなたが好きになった五歳の女の子ではありませんし……」
「いや、別に俺は幼女が好きってわけじゃないからな?!」
 必死に言い訳する彼に、シャーロットはただ曖昧な笑みを浮かべて応じた。
 この十年のあいだに成長して変わったところは多々ある。そのことで失望されるかもしれないという不安は消えないが、それを追及する気はなかった。なのに——彼はふと何かを察したように真面目な顔になり、言葉を継ぐ。
「君のことはあのときからずっと写真をもらって見てきたし、話も聞いてきた。会ってはいなかったがある程度はわかっていたつもりだ。でも実際に会った君はそんなものをはるかに超えていたよ……ロッテ」
 甘く愛おしむような声であのときの名前を呼ばれて、頬が熱くなる。
 彼の話から、少なくとも十年前の幻影を追っているわけではないとわかった。きっとこれからも目の前のシャーロットと向き合ってくれる。そう思うと、ようやくすこし安心できた。
「そういえば、あのとき最初からわたしだと気付いていたのですよね?」
「ああ……ひとりで街にいる君を見かけて本当に驚いたよ。自分の素性を明かさなかったのは、君に結婚を強いた公爵家の人間としてではなく、ひとりの男として見てほしかったからかもしれない」
 きまり悪そうにしながらも、彼は聞きたかったことまで先回りして答えてくれた。
 あのときシャーロットが街にいることは誰も知らなかったはずなので、出会ったのは本当に偶然だろうし、素性を明かさなかったのも明確な意図はなかったのかもしれない。それでも——。
「ずるいです」
 あえて口をとがらせて言う。
「そのせいでわたしがどんな気持ちでいたかわかりますか? とうに心を決めていたはずなのに、結婚するのがつらくなってしまって……こんなことなら出会いたくなかったとさえ思いました」
「それって……」
「リック様を好きになってしまったんです」
 その告白に、彼は想像もしなかったとばかりに大きく目を見開いた。たった半日しか一緒に過ごしていないのだから当然かもしれない。それでもシャーロットはにっこりと微笑んで言葉を継ぐ。
「だから、責任をとってくださいね」
「責任……?」
 そう聞き返す彼に、やわらかに腕を伸ばして抱きついた。
 瞬間、薄布越しに伝わってきたのは無駄なく鍛えられた体躯、そして体温。こんなにも男性に密着したのは初めてのことで、心臓が壊れそうなくらいドキドキしながらも、そっと口を開いて言う。
「ずっと、末永く仲良くしてほしいの」
「……約束する」
 静かながらも芯のある声が返ってきた。
 ほっとした瞬間、彼にやさしく両肩を押されて二人の体が離れた。戸惑いながら顔を上げると、怖いくらいまっすぐな目がそこにあって息を飲む。まるでとらわれたかのように絡んだ視線がほどけない——。
「後悔はさせない」
 ふいにリチャードが宣言した。
 そしてゆっくりとシャーロットの頬に手を添えながら、顔を近づけてくる。その表情は婚儀のときよりずっと真剣で——思わずシャーロットはくすりと笑い、ほどなくして紫の双眸に吸い込まれるように目を閉じた。