「シャーロット!!!」
アレックス・グレイは庭の隅にぽつんと立つ大樹に駆け寄ると、大きく手を振った。
見上げた先には、立派な枝に腰掛けるシャーロット・グレイがいる。彼女はひらひらと手を振り返すと、軽やかな身のこなしで幹を伝って芝生に降り立ち、ふわりと愛らしい笑顔を見せた。
「久しぶりね」
「うん、元気そうでよかった」
「しばらくこっちにいるの?」
「二週間くらいかな」
アレックスはエヘヘと笑い、半年ぶりの再会となった彼女にあらためて目を向ける。以前に会ったときはすこし見上げるような感じだったのに、いつのまにか同じくらいの高さになっていた。
アレックスは、昔からずっとシャーロットのことが好きだった。
二歳上のいとこである彼女とは、まだ物心もつかないくらい幼いころから交流があり、だいたい週に一度は弟とともに家に遊びに行っていた。そんな中でいつのまにか大好きになっていたのだ。
ただ、いまは王都にある全寮制のパブリックスクールに入っているため、長期休暇のときしか会えない。学校生活も寮生活も楽しくて充実した日々を送っているが、そのことだけが残念だった。
だから故郷に帰ったときには毎日のように遊びに行っている。母親には若干あきれられている気もするが、止められることはない。箱入り娘のシャーロットにとっては貴重な遊び相手なのだから。
「ん……やっぱりここ気持ちいいね」
アレックスとシャーロットは並んで大樹の下に寝転がっていた。
そよ風が吹き、木の葉が揺れ、その合間から雲ひとつない青空が見え隠れする。それにあわせて木陰も揺れる。空気も澄んでいて心地いい。アレックスは仰向けのままゆっくりと深呼吸をした。
隣に目を向けると、シャーロットも心地よさそうに緑色の瞳を細めていた。やわらかなストロベリーブロンドは芝生にふわりと広がり、アレックスの手にもほんのすこしだけ触れている。
ピピピピ——。
ふいに小鳥のさえずりが聞こえた。
顔を上げると、二羽の小鳥が円を描くように飛んできて枝に止まった。さきほどシャーロットが座っていたところだ。軽く枝をつついていたかと思うと一羽が飛び立ち、それをもう一羽が追っていく。
「ねえ、シャーロット」
「なぁに?」
気の抜けた返事をして、彼女はそよ風に誘われるように緑色の瞳を閉じた。その横顔を見つめたまま、アレックスは一呼吸おいてそっと話をつづける。
「いつもこの木に登って何を見てるの?」
それは一年ほど前から気になっていたことだった。
彼女はひとりのときによくこの木に登って遠くを見ている。以前はただ見晴らしのいい景色を眺めているだけかと思っていたが、ときどき何かせつなげな顔をしていることに気付いたのだ。
もっとも彼女にはそのあたりの自覚はなかったのかもしれない。不思議そうにきょとんとして振り向く。アレックスと目が合うとふっとやわらかい表情で微笑み、あらためて大樹を見やりながら言う。
「登ってみたらわかるわ」
「僕が苦手なの知ってるよね?」
「ふふっ」
アレックスはじとりと恨めしげに横目で睨み、口をとがらせる。
彼女は幼いころからドレスを着たままするすると登っていた。一方で自分は高いところが苦手なので登ろうとさえしなかった。彼女に誘われるたび、ひどく情けなく思いながらも無理だと断っていたのだ。
けれど、すこしまえに一念発起してひそかに練習を始めていた。いつか彼女と一緒に木に登りたくて、そして見直してもらいたくて。ただ、これほど大きな木にはまだ一度も挑戦したことがない——。
「どうしたの?」
アレックスが無言のまま立ち上がって大樹を見上げると、彼女はつられるように体を起こしてそう尋ねた。しかしアレックスは目標の場所を見据えたまま振り返らない。
「登ってみる」
「えっ……大丈夫なの?」
「たぶん」
そう答えると、大きな幹に手をかけて登りはじめる。
怖くないわけではないが、それよりも彼女のことを知りたいという気持ちが上回った。どこに手をかけようか足をかけようかと考えながら上を目指していく。
「気をつけてね」
ハラハラと心配そうな彼女の声。
しかし登ることに必死になっているため返事をする余裕はない。やがてどうにか彼女が座っていたところまでたどり着くと、ほっと安堵の息をついて腰掛ける。
「ひっ」
何気なく下を見たら、その高さに血の気が引いてあわてて顔を上げた。
ただ真下にさえ目を向けなければわりと大丈夫そうで、ぐるりと遠くの景色を確認していく。そこは高台ということもあってとても見晴らしがよかった。
「…………」
比較的近いところには木々や草などの緑が多く、その向こうには街、集落、畑などがあり、さらに遠くには山々、そしてかすかながら海も見える。だが、彼女が何を見ていたのかまでは——。
「わかったかしら」
「へぁっ?!」
すぐ隣から悪戯めいた声が聞こえてびっくりする。
振り向くと、声の主であるシャーロットがそこにいた。アレックスが景色に気を取られているあいだに登ってきたようだ。彼女はおかしそうにくすりと笑って腰を下ろすと、遠くに目を向ける。
「わたしね……カーディフの街を見ていたの」
「あっ」
聞いた瞬間、せつなげな顔をしていた理由を悟った。
彼女は幼いころから敷地の外に出ることを許されていなかった。父親の過保護ゆえだ。だからといって不満を口にするようなことはなかったが、お芝居を見たり、買い物をしたり、食べ歩いたり、そんなふうに街を楽しんでみたいと思っていても不思議はない。
「ふたりだけの秘密ね」
彼女は淡く微笑み、そのまま唇のまえで人差し指を立ててみせる。
その表情と仕草にドキリとして、思わずアレックスは流されるようにこくりと頷いてしまった。しかし冷静に考えると、それはつまり両親でさえ彼女の望みを知らないということで。
「おじさんとおばさんには言わないの?」
アーサー伯父さんなら話せばわかってくれるのではないかと思った。娘のシャーロットにはとても甘いのだ。しかしながら彼女は話すことも頼むことも望んでいないらしい。
「大事に守ってくれているのにワガママなんて言えないわ」
「でも、それじゃあずっとこのまま変わらないよ?」
「そうね……だけど大好きな二人を困らせたくないから」
そんなことを言いながら困ったように笑う。
それを見てアレックスはひどく胸が締め付けられた。わがままのひとつくらい言えばいいのにと思ったが、両親を困らせたくないという彼女の気持ちは尊重したい。それでもどうにかして彼女の望みを叶えられないだろうか——。
「アレックス?」
こころなしか怪訝そうに呼びかけられたそのとき、心が決まった。
ごく自然に外出が許されるようになるにはこれしかない。ゆっくりと呼吸をしてから顔を上げると、鮮やかなペリドットの瞳をまっすぐに見つめて訴える。
「シャーロット、大人になったら僕と結婚しよう」
「……えっ?」
「僕、学校を卒業したら騎士になろうと思ってるんだ。だから一緒に王都で暮らそう。街でも、海でも、どこでも行きたいところに連れて行ってあげるよ。七年くらい待たせることになるけど」
彼女のために自分を犠牲にするわけではない。もともと彼女との結婚をひそかに夢見ていたのだ。こんな形でのプロポーズになったことは残念だが、一緒に暮らせたらと想像するだけでウキウキする。だが——。
「ごめんね……わたしの結婚相手はお父さまが決めるの。縁を結ぶことで利益になるようなひとを選ぶと思うわ。貴族の結婚ってそういうものだから」
「…………」
彼女が申し訳なさそうに微笑を浮かべるのを見て、アレックスは呆然とする。
忘れていたが、言われてみればシャーロットが生まれたのは由緒ある伯爵家だ。貴族の結婚は親が決めるのが普通だとか何とか、パブリックスクールの同級生が話しているのを聞いたことはある。
「で、でも、おじさんならシャーロットの幸せを一番に考えるんじゃないかな」
「どうかしら……まあ、どちらにしてもアレックスを相手に選ぶことはないわね」
「え、なんで?」
わけがわからず聞き返すが、彼女は前を向いたまま何でもないかのように答える。
「アレックスは貴族じゃないでしょう?」
「貴族じゃないとダメなの?」
「貴族の結婚ってそういうものだから」
そういう決まりならアレックスにはどうしようもない。
一瞬、駆け落ちでもすればいいのではないかと思ったが、それでは両親を困らせてしまうので本末転倒である。他にどうすればいいのかはまったく思い浮かばない。
「ありがとう、気にかけてくれてうれしかった」
「うん……」
結局、ただ気にかけることしかできなかった。
自分の不甲斐なさにうなだれるが、そのときふと気付く。そもそも彼女は結婚さえすれば外に出られるのではないか。相手がアレックスでなくても。まともなひとなら妻を閉じ込めておこうとは思わないだろう。
バカだな——。
自分のしたことが一気に恥ずかしくなる。
ただ、いつか彼女の望みが叶うのであればよかったと思う。理解あるひとと結婚して、街にも遊びに行けて、ずっと幸せに暮らしてくれたら言うことはない。できれば自分が幸せにしたかったけれど。
「ね、カーディフの街のことを聞かせて?」
ふいに彼女が仕切りなおすように声をはずませて、覗き込んでくる。
その雰囲気につられてアレックスも表情が緩んでしまった。こくりと頷き、尋ねられるまま街で見聞きしたことをあれこれと話していく。胸を苛んでいたせつなさはそっと奥にしまいこんで。