エリザベスは頭が痛かった。
王妃として、ウィンザー公爵家の跡取りが結婚したことはめでたく思うが、その経緯と相手のことを考えると手放しで喜んではいられない。国王たる夫も一枚噛んでいるというのだからなおのこと——。
「そんなことより用件をおっしゃってください」
そう言い放ったのは、件のウィンザー公爵家の跡取りであるリチャードだ。
近況を尋ねたのだが答える気もないということだろう。侍女が淹れた紅茶にも軽く口をつけただけで、もう見向きもしない。さっさと用事を終わらせて帰りたがっていることは明白だ。
「おまえ、不敬罪で投獄されたいのか?」
「グッ……」
王妃であるエリザベスに敬意を欠いた言動をすれば、当然、不敬罪になる。
もっともこの程度のことで本当に罰しようなどとは考えていない。子供のころから交流のある知人となればなおさらだ。しかしながら彼の態度をあらためさせるには十分だったようである。
エリザベスはふっと笑い、立ったまま傍らに控えている女官のひとりに目配せした。すぐに彼女はすっとリチャードのほうに進み出て、繊細な金の模様があしらわれた純白の封書を差し出す。
「どうぞ」
「ああ」
そのとき、彼は宛名を目にしたらしくハッと小さく息を飲んだ。しかしすぐさま我にかえったように表情を消して受け取ると、ゆったりと紅茶を飲んでいたエリザベスのほうに向きなおる。
「これは、お茶会の招待状でしょうか?」
「さよう」
妻のシャーロット宛てになっていたので察したのだろう。王妃が公爵家の妻と親交を深めるのはごく普通のことで、何もおかしくはない。むしろ責務といえる。リチャードもそのくらいのことはわかっているはずだが——。
「申し訳ありませんが、妻の社交については当家のほうで考えておりますので、この話はなかったことにしていただけませんか。初めてのお茶会が妃殿下主催というのはいささか荷が重いかと……」
「招待は取り消さない」
エリザベスは居丈高に凛然とした声でそう告げた。手にしていた白磁のティーカップを静かに戻し、言葉を継ぐ。
「シャーロットの事情は聞いている。過保護な親のせいで幼少期より敷地外に出ることも許されず、成人年齢に達するやいなや、社交デビューもできぬままおまえと結婚させられたのであろう?」
「……ですから責任をもってわたしが」
「ろくに社交もせずひきこもっていたおまえに何がわかる」
ピシャリと言うと、物言いたげな彼の鼻先に人差し指を突きつける。
「いいか、おまえたちは社交界であることないこと言われ、注目の的になっている。それゆえ誰も彼も手ぐすね引いて待っておるのだ。世間知らずの彼女などあっというまにいいようにされてしまうわ」
「わたしが付き添っていればいいでしょう」
「馬鹿者、それで根本的な解決になると思っておるのか」
エリザベスはあきれた目を向けて溜息をつくと、再びティーカップを手に取り、それを面前に掲げるようにしながら話をつづける。
「わたくしのお茶会でゆっくりと社交の場に慣れてもらいながら、気をつけるべきところを教えていく。最初は二人きりでな。そうすれば王妃と懇意であると知らしめることもできるだろう」
「…………」
無言のリチャードから疑わしげなまなざしを向けられるが、素知らぬ顔をして紅茶に口をつけた。
「心配するな。かわいいおなごを泣かせる趣味はない」
「あなたがそこまでしてくださる理由がわかりません」
「おまえたちが次期公爵夫妻だからだ」
この国の安寧のためには、公爵家にも安寧でいてもらわなければならない。それはもちろん本当のことだが、それだけではなかった。この現状に個人的な責任を感じていたからというのもある。
子供のころ、悪意はなかったが八つ年下の彼に横暴を働いていたのだ。
彼が社交の場に姿を見せないのも、女性に興味を示さないのも、もしかしたらそれが原因なのかもしれないとひそかに思っていた。だからといってまさか幼女に走るとは思わなかったが——。
「承知しました……謹んでお受けいたします」
「楽しみにしておると伝えてくれ」
彼は座ったまま一礼する。その表情には拭いきれない不安と葛藤が見てとれた。
その日、空は穏やかに晴れわたっていた。
せっかくなので、お茶会は王宮の奥まったところにある小さな庭で行うことにした。そこは基本的に王族と側仕えしか立ち入ることのできない場所だ。外とはいえ盗み見られることもないだろう。
「お招きにあずかり光栄に存じます。シャーロット・ウィンザーです」
招待客のシャーロットは指定した時間どおりに姿を現した。エリザベスを前にしても緊張した素振りはなく、やわらかく微笑んだまま丁寧に膝を折って敬意を表する。所作は文句なく美しい。
ただ——顔立ちに幼さが残るせいか、無垢な雰囲気のせいか、どうしても成人年齢に達しているようには見えない。まるで幼気な少女である。こんな子を強引に娶ったのかと思うと頭が痛いが、いまはおくびにも出さない。
「堅苦しいのは抜きにして楽しもうぞ」
「ありがとうございます」
テラスには白い丸テーブルと椅子がしつらえられており、そこに二人で座った。彼女はきらきらと目をかがやかせながら庭を眺めていく。
「とてもかわいらしいお庭ですね」
「王族の私的な庭でな。滅多に人を呼ばぬのだぞ」
「ふふっ、リチャードと結婚してよかったです」
小さく笑いながらそんなことを言う彼女につられて、エリザベスも笑顔になる。まわりの雰囲気もすこしやわらかくなった気がした。
「その薄紫色の花もバラなのですか?」
「さよう、この庭でしか咲いておらぬ品種だ」
「とても上品できれいですね」
「気に入ったなら帰りに数本持っていくか?」
「わあ、ありがとうございます!」
こういうとき招待客はたいてい恐縮したり遠慮したりするのだが、それがマナーというわけではない。彼女のように何のてらいもなく素直に喜びを表してくれるのも、存外に悪くないと思う。
話が一段落したところで、ティーセットとケーキスタンドが運ばれてきた。侍女により手際よく支度が調えられていく。
ただ、紅茶をそそぐのは招待主であるエリザベスの役目である。手ずからティーカップに入れ、それを冷めないうちに飲むようシャーロットに勧めると、彼女はいただきますと口に運んだ。
「おいしい……わたしが好きな紅茶と似てますけど、それよりもコクがあります。サンドイッチにもケーキにも合いそうですね」
「そちらも食べて構わぬぞ」
「催促してしまったようですみません」
そう言って肩をすくめつつも、遠慮なくケーキスタンドから自分のプレートに取り分けていく。それを微笑ましく眺めながら、エリザベスはもうひとつのティーカップにも紅茶をそそいだ。
不思議な子だな——。
初めて王妃と会うときには大なり小なり緊張するものだ。成人してまもない若い子であればなおのこと。不興を買わないように気に入られるようにと考えすぎて、どこかぎこちなくなるのが普通である。
しかし、シャーロットにはそれがない。
世間知らずであるがゆえに、王妃をまえにしても無邪気でいられるのかもしれない。しかしながら無礼にならない程合いはわきまえている。それが何とも絶妙で興味をひかれずにはいられなかった。
「そろそろ故郷が恋しくなってきたのではないか?」
シャーロットの父であるグレイ伯爵の話題でひとしきり盛り上がったあと、話の流れでそう尋ねてみた。彼女はわずかに目を見張るが、すぐにふっと何か思案をめぐらせるような面持ちになり静かに話し始める。
「そうですね……両親や弟たちに会いたい気持ちはありますけど、寂しいというほどではありません。いまはとても充実した日々を送っていますので。わたし、意外と薄情なのかもしれませんね」
最後はそう冗談めかして軽く肩をすくめた。つられてエリザベスの口元が緩む。
「いや、寂しくないのであれば何よりだ」
「皆さんによくしてもらってますので」
「リチャードとも上手くやっておるのか?」
「はい」
彼女を招待したのはこのあたりのことを聞くためでもあった。いまのところつらい思いをしているような様子は見受けられないが、だからといって安心はできない。
「そなたに無理を強いておらねばよいが」
「リチャードはいつもわたしを尊重してくださいます。わたしの希望ですこしずつですが家の仕事もさせてもらってますし、侍女と街に出かけたりもしています。リチャードが休みとのきはもちろん彼と過ごしますけど」
ほう、案外まともなのだな——。
執着のほどからして、ひたすら家に閉じ込めてかわいがっているだけなのかと思っていた。家の仕事はまだしも、侍女を連れているとはいえ単独の外出を許していることが驚きである。
「では、困っていることはないのだな?」
「仕事に行きたくないと駄々をこねるくらいですね」
「ははっ、今度顔を合わせたら説教しておこう」
正直、彼女のことはリチャードに捕まったかわいそうな子だと認識していたし、世間知らずゆえ彼のいいようにされているのではないかと心配していた。しかし話をするにつれてその印象は覆されていく。
案外、主導権を握っているのは彼女のほうかもしれないな——。
そう思うと愉快でたまらなかった。
再びティーカップに手を伸ばそうとしたとき、女官がそそくさと近づいてきて短く耳打ちした。エリザベスはひとつ頷いて返事をする。
「通してくれ」
「かしこまりました」
女官は一礼して足早に戻っていった。
その様子を見ていたシャーロットは不思議そうな顔になる。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
「すまないな、実はもうひとり呼んであったのだ」
「まあ、そうなのですね」
もともと二人きりでという話だったので、不審に思ったり不快に感じたりしてもおかしくないのに、すこしもそんな様子は見られない。それどころか屈託のないうれしそうな笑みを浮かべている。
「誰だか気にならぬのか?」
「これから紹介してくださるのでしょう?」
「ああ……」
なんとも掴みどころがなく、本音なのかごまかしているのかさえわからない。エリザベスのほうが振りまわされてしまっている。
カツン——。
そのとき、ふいに高い靴音があたりに響いた。
振り向いた先にいたのは招待していたもうひとりの女性だ。こうして間近で顔を合わせるのはしばらくぶりであるが、その容色はすこしも衰えていない。むしろ輝きが増したように見える。
ただ、あいかわらず愛想は足りない。彼女は笑みひとつ浮かべることなくまっすぐ前を向いたまま、白い椅子に座るエリザベスのもとへたおやかに進み出て、流れるように膝を折る。
「お招きにあずかり至極光栄に存じます」
「座ってくれ」
空いた椅子を示すと、彼女は隣のシャーロットにも軽く会釈してから腰掛けた。そしてしんと静まりかえったところでエリザベスが口を切る。
「紹介しよう。こちらはウィンザー侯爵夫人のシャーロット、そしてこちらはポートランド侯爵夫人のロゼリアだ」
「えっ……?!」
二人とも驚いたように顔を見合わせた。
面識はなかったようだが、相手がどういう人物であるかは知っていたのだろう。互いに当惑を隠せないまま気まずい空気が流れていく。やがてロゼリアが耐えかねたようにそっと目をそらし、口を開く。
「エリザベス様……お人が悪いですわ……」
「そなたたちを思ってのことだ」
エリザベスはとりすまして答えた。
「シャーロットが社交界に出るなら顔を合わすことは避けられんし、話題を振られることもあるやもしれん。そうなるまえに、できるかぎりわだかまりを解消しておいたほうがよいであろう?」
わだかまりが何か、二人なら言うまでもなくわかっているはずだ。
その原因である例の事件はいまのところ表沙汰になっていないが、いつ噂が広まってもおかしくないし、そうでなくても他のさまざまな噂で注目の的になっている。おかしな反応を見せれば炎上必至だ。
ちなみにエリザベスがなぜ例の事件を知っているかというと、夫である国王に聞かされたからだ。王妃として知る必要があると。そして国王はリチャードから私的に報告を受けたとのことである。
話を聞いてロゼリアはうつむいた。しかしすぐさま心を決めたようにすっと表情を引き締めると、そのまま立ち上がってシャーロットのほうに向きなおり、頭を下げる。あわててシャーロットも椅子から立った。
「わたくしのせいであなたを危険にさらしたことを心より謝罪します」
「いえ、どうかもうお気になさらないでください」
謝罪を受けたシャーロットのほうが申し訳なさそうだ。夫のリチャードにも非があることを理解しているが、それを口にすればかえってロゼリアの矜持を傷つけかねない。だから謝罪したくても謝罪できずにいるといったところか。
「これで水に流すということでよいな?」
助け船を出すと、二人はどこかほっとしたように頷き合って腰を下ろした。まだぎこちなさはあるが、お茶会を経ればそれなりに自然に話せるようになるだろう。友好なふりさえできればいいのだ。
だが、もしかすると——。
ロゼリアはいつも無難に社交をこなしつつも一線を引いているが、シャーロットなら彼女の心を開けるかもしれない。そして本当に仲良くなってしまうかもしれない。そんな予感がしていた。
「さあ、お茶会の再開だ」
エリザベスは仕切りなおすようにそう声を張ると、新しい白磁のティーカップに紅茶をそそぎ、ロゼリアに差し出した。