「陽菜さんとは、結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
神戸旅行から帰ってきた翌々日、総司はスーツを身につけて藤沢家へ挨拶に来た。彼のスーツ姿を見たのは陽菜も初めてだ。いつものカジュアルな格好も似合っているが、スーツだと凛としていかにも仕事ができそうに見える。和室に案内すると、彼は向かいに座る陽菜の両親に目を向けて、臆することなく堂々と交際の事実を告げた。
しかし、両親に驚く様子は見られなかった。
母親によれば、総司のことは町内の主婦たちのあいだで謎のイケメンとしてよく話題にのぼっていたらしい。そして陽菜と付き合っているのではないかとも噂されていたという。寂れた田舎町なので若者がすくなく、それゆえ彼のような目立つ容姿の男性がいれば否応なく注目を集めてしまう。井戸端会議の餌食にされるのも無理からぬことだろう。
それでもさすがに総司の家のことまでは知らなかったようだ。もとより二人の交際や結婚に反対する気配はなかったが、朝比奈の話を聞いて目を丸くすると、急にひれ伏さんばかりの低姿勢で陽菜を差し出そうとする。やっと陽菜を厄介払いできると思ったのか、あるいは朝比奈に何か期待でもしているのか——どちらにしても浅ましくて嫌になる。
反対されなくて良かった、と総司は帰りの道すがら安堵したように言っていたが、陽菜が両親の態度を詫びると曖昧に苦笑していた。二人とも世間体を気にする程度の良識はあるはずなので、あからさまに何かを要求することはないだろうが、たとえそんなことがあっても全力で突っぱねようと心に決める。
年が明けて、今度は朝比奈家へと挨拶に向かった。
一日早く東京へ行ってホテルに泊まり、翌朝、総司の予約した美容室で準備をするという段取りだ。髪は毛先を整えてふんわりとブローし、メイクをしてもらう。これまで一度もメイクの経験がなかったので緊張した。ナチュラルメイクなのでそれほど変わらないという話だったが、鏡の中の自分はいつもよりだいぶくっきりとして見えた。
衣装やバッグなどはすべて総司が用意してくれた。気は引けるが、陽菜はろくな服を持っていないしセンスもないので、素直に彼の言うとおりにした方がいいのだろう。彼の両親に悪い印象を与えるわけにはいかないのだ。値段は聞いていないが、どれも陽菜の所有するものとは比較にならないくらい上質だということは、これまでにないなめらかな手触りや着心地などで何となくわかった。
朝比奈家は想像のはるかに上をいく立派な屋敷だった。見たところわりと新しそうだが、門構えや塀も含めて由緒正しい和風建築といった趣である。応接間から見える庭園には池まであり、大きな錦鯉が何匹か優雅に泳いでいるのが見えた。
総司があらかじめ心臓のことなどすべて話しておいたというので、どういう反応をされるか心配でたまらなかったが、意外にも彼の両親は難色を示すどころか手放しで歓迎してくれた。それも度が過ぎるくらいに。どうか息子をよろしくお願いします、と目元をハンカチで抑えながら頭を下げられ、安堵を通り越して困惑してしまったくらいだ。
帰りのタクシーでそのことを総司に告げると、だから放蕩息子だって言っただろう? といたずらっぽく肩をすくめて返された。大学を卒業しても定職に就こうとせず、地方に引っ越して好き勝手やっていたので、そんな駄目息子と結婚してくれる女性がいてほっとしたのだろうと。そういうものなのかな、と陽菜はかすかな違和感を覚えながらも曖昧に納得した。
二人で話し合い、三月に結婚して東京へ引っ越すことに決めた。
四月から総司が朝比奈の関連会社に入社することになったので、それに間に合わせるためである。急なことだが、住居の準備や手続きなどはほとんど総司がしてくれるという。結婚式は生活が落ち着いてから考えようということになった。
陽菜は一年半ほどアルバイトとして勤めた洋菓子店を辞めた。病気療養中だった奥さんがもう普通に働けるようになっているので、陽菜が辞めても支障はない。結婚して東京に転居する旨を伝えると、二人ともまるで我がことのように喜んでくれた。アルバイト最後の日には陽菜のために特別にケーキまで作ってくれた。
東京では働いても働かなくてもどちらでもいいと総司は言ってくれた。何か目指したいものがあるならそれを目指せばいい。勉強したいのであれば高校に通ってもいいし、高卒認定試験を受けてもいい。もちろん専業主婦でも一向に構わないと。陽菜自身まだどうしたいのかわかっていないので、これから考えていくつもりだ。
そうして怒濤の一月が過ぎ、いっそう寒さが厳しくなったころ。
家で引っ越しの準備をしていると見知らぬ女性が陽菜を訪ねてきた。同年齢かすこし上くらいだろうか。女性にしては背が高めで、手足も長くすらりとしており、スリムなジーンズがよく似合っていた。髪はショートカットだが目がぱっちりと大きく、ボーイッシュな中に女性らしさも感じられる。端的にいえば美人だ。
おそらく地元の人間ではないだろう。そんな人がどうして陽菜を訪ねてくるのか心当たりはない。考えられるとすれば——脳裏に浮かんだ嫌な推測に鼓動が速くなるのを感じ、玄関先で会釈をしながら怪訝なまなざしを送る。彼女は臆することなく陽菜を見つめ返して一礼した。
「突然お伺いして申し訳ありません。私は朝比奈総司の知り合いで、清水咲子(しみずさきこ)というものです」
「…………」
嫌な推測は当たっていた。だが総司とどういう関係なのかはまだわからない。二股をかけるような人ではないと信じている。ただ、元婚約者や元恋人ということは十分に考えられる。彼は別れたつもりでも、彼女の方はそう思っていなかったという可能性もある。
「すこしお話をさせていただけますか?」
「はい……どうぞ、お上がりください」
陽菜は来客用のスリッパを出して彼女を招き入れた。
今は両親ともに不在だ。彼女が危害を加えてくるような人には見えないが、万が一ということもある。彼女を和室に通したあと、台所で湯を沸かして来客用のお茶を淹れる準備をしつつ、そっと自室に戻って携帯電話をポケットに忍ばせた。
お茶を出してどうぞと勧めると、彼女は姿勢を正したまま一口飲んで吐息を落とした。
「知り合いでもないのにいきなり家に押しかけるだなんて非常識よね。ずいぶん怖がらせてしまったみたいでごめんなさい。どうやって話を聞いてもらおうか考えたけど、あまり時間もなかったしほかに方法が思いつかなかったの。でも、私はあなたの味方のつもりだから安心して」
口調と表情がすこし砕けた。
しかしながらそのことがよけいに不安を煽る。自分から味方だと近づいてくる人は信用するな、と何かの映画でも言っていた。不安を抱えたまま不自然に口を閉ざしていると、彼女は軽く肩をすくめて言葉を継ぐ。
「心配しなくても総司と恋愛関係なんて一切ないわ。ただの幼なじみよ」
「幼なじみ……」
「家が近所でね。幼稚園から高校までずっと一緒だったの」
本当に陽菜の想像するような関係ではなかったのだろうか。ただの幼なじみという話を信じていいのかわからない。ただ、どういうわけか伏せられた彼女の瞳にはわずかな陰りが見えた。それがこれからの話を暗示しているようで無意識に緊張が高まる。
「それで、幼なじみの方がどういったご用件でしょうか?」
「あなた、二年半前の八月十四日に心臓移植をしたのよね? 」
「そうですけど……」
総司の幼なじみなら知っていても不思議ではない。総司本人から聞いたのかもしれないし、あるいは実家の方から聞いたのかもしれない。けれど、日付まで持ち出してくるのは何か不自然な気がした。訝しみながら答えを求めるようにじっと見つめると、彼女は表情を硬くして口を開く。
「その心臓、私たちのもうひとりの幼なじみのものだと思うわ」
「えっ?」
「総司はその心臓を追ってあなたに近づいたのよ、多分ね」
何を言っているのかにわかには理解できなかった。心臓って移植されたこの心臓? 総司さんの幼なじみ? 追うってどういうこと? さまざまな疑問が矢継ぎ早に頭を駆けめぐるが、なぜだかまともに思考が働かない。不穏な胸騒ぎだけが勝手に大きくなっていく。
「総司はその幼なじみに異常なくらい執着していたの。私たちはハルって呼んでた。逢坂遙人(おうさかはると)だからハル。あなた、総司からハルって呼ばれてるんでしょう?」
まさか——すうっと血の気が引いていくのを感じた。
「総司はね、ハルに彼女ができるたびに誘惑して奪ってすぐに捨ててた。ハルに彼女がいるのが許せなかったみたい。そういう総司の気持ちにハルは気付いてなかったけど、ずっと二人を見ていた私にはわかったわ。大学生になってからはふたりと疎遠になっていたから、何があったかは知らないけど……ハルは総司と喧嘩別れしたその帰りに、交通事故で亡くなったって」
陽菜はただ呆然と聞いていた。心臓は何かを訴えかけるようにドクドクと激しく脈打っている。全身から嫌な汗がじわじわとにじみ出てくるが、指先や足先は次第に冷たくなっていく。息をしているはずなのに息苦しくてたまらない。
「私、ハルのことが好きだったんだ」
彼女は沈黙の中にぽつりと言葉を落とした。片思いだけどね、と曖昧に微苦笑を浮かべて付言すると、すぐに真面目な面持ちになって話を続ける。
「だからハルの心臓をもらって元気になったあなたには、幸せになってほしいの。そのためにも事実だけは伝えておきたかった。総司があなたをどう思っているかはわからないけど、結婚してから後悔することのないように」
「……ありがとうございます、清水さん」
頭の中が気持ち悪いくらいぐるぐるとまわり、いまにも倒れそうになりながら、それでもなんとか背筋を伸ばしたまま応対する。どういうわけか、自分が発したはずの声がやけに遠くに聞こえた気がした。
その日の夜、駅前の喫茶店に総司を呼び出した。陽菜から呼び出すということはこれまで一度もなく、彼は不思議そうにしていたが、それでもすぐにいつもの笑みを浮かべて来てくれた。先に来ていた陽菜の前に座ると、メニューと水を持ってきた店員にホットコーヒーを注文する。
「どうしたの? 何かあった?」
顔をこわばらせる陽菜を覗き込みながら心配そうに尋ねてくる。いつもどおりの優しい総司だ。けれど——陽菜は意を決して彼を真正面から見つめ返すと、キュッと引きむすんでいた小さなくちびるを開き、静かに告げる。
「婚約はなかったことにしてください」
「えっ……?!」
「何もかも白紙に戻したいの」
総司は唖然としたが、陽菜の薬指に婚約指輪がはめられていないことに気付くと、すぐに険しいくらい真剣な面持ちになり思考をめぐらせ始める。それでも心当たりはなかったようだ。困惑したように曖昧に顔を曇らせて小首を傾げる。
「僕、何か怒らせるようなことした?」
「清水咲子さんに会いました」
その名前を耳にした瞬間、彼はハッと目を見開いて息を飲んだ。陽菜はすかさず畳みかける。
「あなたが求めていたのは私じゃない」
「ちょ……」
「逢坂遙人さんなんですね」
「ちょっと待って、ハル」
「ハルって呼ばないで!!!」
これほど大きな声を出したのは生まれて初めてかもしれない。はぁはぁと肩で息をしながら顔を上げて強気に彼を見据える。しかし、その瞳に熱い涙がにじんで視界がぐにゃりと歪んだ。
「咲子が何を言ったか知らないけど、あいつは僕を恨んでるから」
「私だって無条件で見ず知らずの人の言うことを信じたりはしません。でも心当たりがありすぎました。総司さんは逢坂遙人さんの心臓を追って私にたどりついた。逢坂遙人さんの身代わりとして私を手に入れようとした。私をハルと呼ぶのも彼と重ねるため。私の鼓動に固執していたのも彼を感じるため……違うのなら否定してください」
「…………」
彼はきまり悪そうに視線をそらした。
嘘でもいいから否定してくれればよかったのに。騙してくれればよかったのに。逢坂遙人とは関係なく藤沢陽菜が好きなんだ、そう言ってくれれば愚かな私は信じたかもしれないのに。涙がこぼれ、頬を伝い落ちるのを感じながら自嘲の笑みを漏らす。
「彼の心臓を移植していなかったら、私のことなんて眼中にもなかったでしょうね」
「ハルの心臓で生きているのが今のハルだろう? そのハルを好きになったんじゃいけないのか?」
まるで開き直ったかのような言い草。やはり彼が求めていたのは逢坂遙人だったんだ。私じゃないんだ——ずっと大切にされて愛されていると思っていたのに。くやしくて、悲しくて、情けなくて、みっともなくて、腹立たしくて、頭が変になりそうだ。
「苦労して探し出して何年もかけてようやく手に入れたんだ。もう二度と手放すつもりはない。ずっと僕のそばにいてくれるって約束したよね? ハルの心臓だって僕とひとつになれて喜んでたじゃないか。一生大切にするから僕だけのものになってよ、ハル」
「やめて!」
勝手なことを言いながら前のめりに覗き込んでくる彼に恐怖を感じ、身をすくめて叫び声を上げた。体は小刻みに震えている。それでも濡れたままの瞳で気丈に彼を見据え、冷たくなった両手を自分の胸元に置いて言う。
「私を自由にしてくれないのなら、この心臓を刺して死にます」
「ハ、ル……」
彼は伸ばしかけた手を止めて愕然とした表情で固まった。その顔からみるみる血の気が引いていくのがわかる。そんなにもこの心臓が大切なのかと、感情的になっていた陽菜の頭は急速に冷えていった。
「私をすこしでも好きでいてくれたのなら、もうこれ以上苦しめないで」
鼻をすすり静かにそう告げると、婚約指輪の箱と紅茶の代金をテーブルに置き、他に客のいない閑散とした喫茶店をあとにした。コートを脇に抱えたまま北風の吹き荒れる闇夜を走りだす。身を切るような猛烈な寒さに凍りつきそうになりながら、それでも心臓は存在を主張するかのように熱く脈動していた。