誰がために鼓動は高鳴る

第8話 その鼓動は誰のため(最終話)

「ガラスの棺に入った白雪姫に王子様が口づけをすると、姫は生き返りました。こうして白雪姫と王子様は結ばれて幸せに暮らしました——おしまい」
 陽菜は毛足の短い絨毯敷きの床にぺたりと座り、三人の小さな女の子たちに囲まれながら、広げた絵本をゆったりとした口調で読み終えた。
 奥の方では若い男性が小さな男の子と一緒になって積み木遊びをしている。隅の方では十歳くらいの少年が背の低い本棚を覗き込んでいる。その隣では五歳くらいの男の子が恐竜の本を絨毯に広げている。まるでちょっとした託児所のような雰囲気だが、託児所とは違い、子供たちはみんなパジャマやそれに近い格好をしていた。
 ここは長期入院する子供たちのために作られた院内の遊び場だ。陽菜も元気になるまではこの病院に入院していたので、何度か利用したことはあるが、五年前に改装されたとかでだいぶ様変わりをしている。それでも面影は残っているので多少の懐かしさは感じられた。
「わたしのところにも王子様がきてくれるといいな。病気をなおしてくれるの」
 絵本を覗き込んでいた三人の女の子のひとりが顔を上げ、目をキラキラさせて言った。陽菜も同調するようにやわらかく微笑む。
「来てくれるといいね」
「はるなおねえちゃんのところには王子様きた?」
「んー……来てくれたと思ったけど、違ったんだ」
 まるで女の子の夢見る王子様を体現したような人だったが、陽菜の王子様ではなかった。彼はハルの王子様になりたかったのだ。胸の内でひそかに自嘲する陽菜を見て、彼女はきょとんと小首を傾げると、小さな手でおずおずとセーターの袖を掴んで言う。
「きっときてくれるよ?」
「……ありがとう」
 この子はかつての陽菜と同じ心臓の病気だと聞いている。いつ発作で命を落とすともわからない身の上だ。けれどその幼さゆえか無邪気に希望というものを信じている。
 陽菜もこのくらいの年齢のときはそうだったのかもしれない。しかし、現実を知るにつれて希望を持つことが難しくなる。そしていつしか笑うことさえできなくなる。陽菜だけでなく、長期入院している子供たちの多くがそうなっていくのを目にしてきたのだ。
 それでも、この無垢な笑顔を見ていると願わずにはいられない。この笑顔を曇らせないでほしい、ずっと希望を持ち続けてほしい、決してあきらめないでほしいと——。

 総司が亡くなって三年が過ぎた。
 陽菜は県内の市街地にある小さなアパートに引っ越していた。総司が亡くなったことで地元にはいづらくなったのだ。陽菜がふったせいで彼が自殺したという噂が広まり、同情、非難、嘲笑、呆れ、好奇といったさまざまな目を向けられた。陽菜を横目で見ながらひそひそ話をされることも少なくない。
 町内のどこへいってもこのような状況なので、新しい仕事を探すのも難しかった。かつてアルバイトをしていた洋菓子店の店長夫妻は、またここで働いてくれてもいいと言ってくれたが、さすがにそこまで甘える気にはなれなかったし、陽菜が接客することで迷惑を掛けるのではという懸念もあった。
 母親には、大切にしてくれるなら身代わりでも何でもよかったじゃない、と婚約を白紙に戻したことについてぶつくさ文句を言われた。玉の輿に乗り損ねたバカな娘に失望したのだろう。さらに総司の遺産を譲るという申し出があったことを知ると、どうしてひとりで勝手に断ったの、この親不孝者、いまからでももらってきなさい、などとひどく感情的に責め立てられた。
 逃げるように噂の及ばない市街地で一人暮らしを始めたが、幸い仕事もすぐに見つかった。製菓材料や道具の卸販売をしている会社の一般事務だ。アルバイトやパートではなく社員である。学歴・経験不問ということで、無理だろうと思いつつも応募してみたら、あっけなく採用が決まってしまった。洋菓子店でのアルバイト経験が有利に働いたのかもしれない。
 仕事はこまごまとした雑用、在庫チェック、パソコンの入力作業などである。自分のパソコンは持っていなかったが、総司にときどき触らせてもらっていたので、入力作業くらいならすぐにこなせるようになった。
 総司が求めていたのは陽菜でないと知ったあのとき、何もかもが崩れ去ったように感じたが、良くも悪くもそんなことはなかった。彼とともに過ごした日々の記憶や経験は、陽菜の中で確かに息づいている。何も知らない陽菜に当たり前のことを教え、空っぽな心を満たしてくれたおかげで、ひとりで生きていくことができているのだ。そのことに関しては彼に感謝するしかない。
 しかし、彼の法要や墓参りには一度も行っていない。彼の母親から連絡はあるがすべて断っている。薄情だという自覚はあるが、あまり彼の家族とは関わりを持ちたくなかった。
 二年半ほど前、一人暮らしを始めて半年が過ぎたころだったが、駅前を歩いていたらばったりと懐かしい人に会った。陽菜が入院していたころ、長期入院中の子供たちと遊ぶボランティアをしていたおねえさんだ。あまり反応のない陽菜にもあきらめず声を掛けてくれた恩人である。
 彼女はいまでもボランティアを続けているが、結婚して子供も生まれたので、なかなか都合がつかなくなってきたらしい。その話を聞いて、陽菜は自分にできることがあれば手伝わせてほしいと申し出た。彼女への恩返しのつもりだったが、彼女に憧れていたことも動機のひとつだったのかもしれない。
 それからは週に一度、ボランティアの一人として病院へ行くようになった。おねえさんの都合のいいときは一緒に、おねえさんの都合が悪いときは一人で。最初のうちは子供たちとの接し方がわからず戸惑っていたが、人なつこい女の子が無邪気に話しかけてくれたことで、肩の力を抜いて一緒に遊ぶことができるようになった。
 そして、一年前からはもうひとり新しいボランティア仲間が加わっていた。

「ハルちゃん、帰りにお茶しよう」
 ボランティアの終了時間になり絵本を片付けていたところへ、ひょろりと背の高い青年が笑顔で声を掛けてきた。もうひとりのボランティア仲間の八尋和成(やひろかずなり)である。今日に限ったことではなく、ボランティアのあとはいつもこうやってお茶や食事に誘ってくるのだ。
「ダメ? 予定あるの?」
「お茶だけならいいよ」
 そう返事をすると、不安そうに眉尻を下げていた彼の顔がパァッと輝いた。まるで人なつこい大型犬である。実際にじゃれついてくることはないものの、ぶんぶんと大きく振るしっぽが見えるかのようだ。陽菜の二歳下ということで弟のようにも感じていた。
 そこには彼の境遇も影響しているのかもしれない。生まれたときから心臓に重大な欠陥を抱え、いつ死んでもおかしくない状況だったが、三年前に心臓移植手術を受けて命を繋げたのだという。そう、陽菜の歩んできた道とほとんど同じなのだ。互いに共感を抱くのは自然の流れといえるだろう。
 ただ、彼はその共感を恋愛感情と混同したのかもしれない。出会ってたったの三週間で好きだと告白してきたのだ。今はそんな気持ちになれないから付き合えないと断ると、彼は素直に引き下がり、それからは普通にボランティア仲間として接してくれている。
 一件落着、そのはずだったのに。
 告白なんてされたせいだろうか。陽菜の方が変に彼を意識するようになってしまった。気付いたら目で追っているということも少なくない。手や体が触れたりすると鼓動が早鐘のように打ち始める。単に他人との接触に慣れていないだけかもしれないが、彼以外の人ではこうはならない——。

「ハルちゃん、どうしたの? 考えごと?」
「あ……うん、ちょっとね」
 喫茶店の窓際の席で和成と向かい合わせに座り、紅茶のカップに手をかけたままぼんやりしていると、彼が心配そうに覗き込んできた。陽菜は曖昧に笑顔を取り繕ってごまかそうとするが、彼の表情は変わらない。
「大丈夫? 疲れてるの?」
「ん、平気」
 その返事を耳にして彼は物言いたげな面持ちになる。しかし、それ以上は言及せずにっこりとして話題を変える。
「ハルちゃん、今日は何の絵本を読んだんだっけ?」
「白雪姫。女の子はお姫様と王子様の話が好きみたい」
「好きみたい、って……ハルちゃんも女の子なのに」
「私、ひねくれてたから」
 陽菜は苦笑し、昔を思い出しながら目を伏せる。
「白雪姫もシンデレラもそうだけど、ヒロインだけ都合が良すぎるな、努力しないで幸せになれるんだ、でもそれって本当に幸せなのかな、王子様がいい人って限らないのに、とか醒めた目で見てたんだ。ほんと可愛げのない子供だよね」
「ハルちゃんらしいや」
 可愛げのないのが陽菜らしいと、何気に失礼なことを言われた気がするが、彼は悪気もなくカラッと笑っている。実際、思ったことを素直に述べただけなのだろう。彼のそういう忌憚のないところは嫌いではない。陽菜はつられるようにくすりと笑った。
 ——はるなおねえちゃんのところには王子様きた?
 おとぎ話のご都合主義はまったく信じていなかったのに、自分の身に起こったご都合主義は簡単に信じてしまった。総司のような何もかも持っている人が、陽菜のような何も持たない子供を相手にするはずなかったのに。不思議に思ったことはあったが、彼が好きだったので信じていたかったのだろう。
「ハルちゃん?」
 彼は陽菜が無意識についた溜息に気付き、小首を傾げた。
 陽菜は視線を落として曖昧に笑みを浮かべる。
「萌ちゃんがね、自分のところにも王子様が来てほしい、病気を治してほしい、なんて無邪気に言うもんだから、ちょっとせつなくなっちゃった。王子様なんてそんなに簡単に現れないのにね」
 自分自身のことは隠して話す。彼は真面目な顔になった。
「でも、希望を持つのはいいことだと思うよ」
「そうだけど……持ち続けるのは難しいから」
 陽菜は入院生活が続くにつれてどんどんと希望がなくなっていった。そのうち心が麻痺したかのように何も期待しなくなった。ただすべてをあきらめて死を待つだけの日々だった。いまは能天気なくらい明るい彼も、程度の差はあれ似たような気持ちを抱えていたのではないか。その考えを裏付けるかのように彼は顔を曇らせたが、しかしすぐに陽菜の目を見て優しく微笑んだ。
「大丈夫、きっと僕やハルちゃんの存在が萌ちゃんの希望になるよ。キスで病気を治してくれる王子様は現れなくても、いつか心臓移植をして元気に暮らせるときがくるんだって。ね?」
「うん……」
 自分の存在が希望になるなんて考えもしなかった。もし同じ病気の子供たちがそのように思ってくれるなら、こんな自分でもすこしは生きている価値があるのかもしれない。しかし、ただ生きているのではなく幸せに見えなければ意味がないだろう。生きていたらいいことがあるんだ、私も生きたい、そう思ってもらえて初めて希望になる。
「和成君はさ……手術が成功して元気になったとき、どんな気持ちだった?」
「そりゃあ、もうめっちゃくちゃ嬉しかったよ。死ぬと思ってたのに元気になれたんだもん。もう何でもできるんだ、これから何をしようか、って考えるだけでドキドキわくわくしてた」
 彼は声をはずませてそう言うと、陽菜を見て小首を傾げる。
「ハルちゃんだってそうだよね?」
「私は……怖かったよ」
 陽菜はうっすらと自嘲の笑みを浮かべた。
「生きることが怖くて不安でたまらなかった。いままで死ぬことしか考えてなかったのに、いきなり生きなきゃいけないことになって、どうすればいいのかわからなかった。別に生きたかったわけじゃない、死んだ方がよかったんじゃないか、って思ったりもしたんだ」
 淡々と答え、すこしぬるくなった紅茶を口に運ぶ。
 しかし正面の彼はショックを受けているようだった。命が繋がったのにそんなふうに考える人がいるなんて、想像もしなかったに違いない。おずおずと陽菜を覗き込むようにして尋ねる。
「いまは違うよね?」
「うん、いまは生きられてよかったって思ってるよ。何もできない何も知らない空っぽだった私に、いろんなことを教えてくれた人がいたから。世の中には面白いものが満ちあふれてるんだ、生きるのは楽しいんだって……」
 言葉を紡ぎながらあのころに思いを馳せ、ふいにせつなさがこみ上げた。
「恋も?」
「えっ?」
 驚いて視線を上げると、彼は至極真面目な面持ちで陽菜を見ていた。茶化しているわけではなさそうだ。彼に過去の恋愛について話したことは一度もない。なのにいきなりこんなことを言い出したのは、陽菜がそういう顔をしていたからだろうか。小さく肩をすくめて頬をゆるめる。
「婚約までしたんだけどね、彼が本当に好きだったのは私じゃなかったんだ。でもいまは感謝してる。もし彼と出会っていなかったら、いまでも空っぽのまま無意味に生きていたと思うから」
 彼は話を聞きながら困惑ぎみに眉を寄せ、視線を落とす。
「無神経だったね、僕……ごめん」
「ううん、和成君は悪くないよ」
 恋愛の話を持ち出したことに対しての謝罪だろうが、知らなかったのだから配慮のしようがない。そもそも陽菜が勝手に喋ったようなものなのだ。結果、罪悪感を抱かせることになったのなら、むしろこちらの方が申し訳ないと思う。
「……でも」
 彼は真顔で静かに切り出す。
「ハルちゃんならきっと、その人と出会ってなかったとしても、自分で生きる価値を見つけてたはずだよ。ちゃんと前を向いて生きていたはずだよ。あんまり自分を卑下しないで」
「ん、ありがとう」
 買い被りすぎだとは思ったが、むやみに否定するのも大人げない気がしたので、気持ちだけは素直に受け取ることにした。少なくとも彼には今の陽菜がそう見えているということだろう。ティーカップを手にとってニコッと微笑みかけると、彼もほんのり頬を上気させて照れくさそうにはにかんだ。

「ねぇ、ハルちゃん」
 陽が傾き、地平に近い空がうっすらとオレンジ色に染まっている。
 喫茶店を出て、ふたりで駅に向かう通りを歩いていると、和成が緊張ぎみの声で呼びかけて足を止めた。そして、つられるように足を止めた隣の陽菜に振り向き、ふわりと白い息を吐きながら尋ねる。
「まだ、そんな気になれないかな?」
「えっ?」
「僕はずっとハルちゃんが好き。大好きだよ」
 その真剣なまなざしに言葉を失う。
 外気に晒されて冷えきっていた小さな右手が、彼の大きな左手に優しく包み込むように握られた。すぐにじわじわと熱を帯びてくるのがわかる。手だけでない。心臓はドクドクと壊れそうなくらいに激しく打ち、体中が熱くなる。顔もみっともないくらい赤く染まっている気がする。
 今まで何かの拍子に軽く触れたことはあっても、明確な意志を持って手をつないだことはなかった。すこし触れただけでも鼓動が早鐘のように打っていたのに、こんなにしっかりと握られては、本当に心臓が壊れてしまうのではないかと思う。
 丈夫なはずの心臓が発作を起こしたようになり、元気なはずの体が芯から燃えるように熱くなる。この感覚には憶えがあった。最初のときはわけがわからなくて怖くて怯えていたけれど、今はもう理由もわかっている。そっと目を閉じて細く息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げる。
「和成君……」
「僕、待ってるからね」
「待たなくていいよ」
 そう告げると、彼の表情が一瞬で凍りついた。つなぐ手にわずかに力がこもる。
「待つくらい、待たせてよ」
「私も和成君が好きだから」
「……えっ?」
 彼の目が大きくこぼれんばかりに見開かれ、瞳が、顔が輝いていった。陽菜の手を胸元に引き寄せて両手でぎゅっと握り、大きく前のめりになる。
「付き合ってくれるの?!」
 その勢いに圧倒されてすこし身をのけぞらせながらも、陽菜はくすりと笑い、彼の双眸をまっすぐ見つめたままこくりと頷いた。
 わぁっ、と彼はまわりの目も気にせず感嘆の声を上げ、飛びつくように陽菜の小さな体をガバリと抱き込んだ。ドクドクと高鳴る二人の鼓動が、熱が、重なり共鳴し融け合っていく。まるでひとつになったみたいに。
 息をすることさえ忘れるくらいの幸福感に包まれながら、陽菜はそっと彼の背中に手をまわした。呼応するように陽菜を抱きしめる手に力がこもり、熱い吐息が耳元に落とされる。
「やっとつかまえた……ハル」