東京ラビリンス

青い炎 - 第4話 おまえといるのが一番いい

「橘、おまえ結城先輩と付き合ってるって?!」
 翌朝、昇降口で会った大地と一緒に教室へ行くと、クラスメイトの男子が興奮ぎみに駆け寄ってきて声をはずませた。ほかのクラスメイトたちも浮き足立った様子でこちらを覗っている。さすがの大地もすこし面食らったようだ。
「どうして知ってるんだ?」
「すっごい噂になってるぞ」
 そう言われて、大地はあきれたように溜息を落とすと、男子の横をすり抜けて教室の中へと足を進めていく。悠人はあわててあとを追い、不機嫌そうな彼の横顔を盗み見ながらおずおずと口をひらいた。
「……僕は言ってないから」
「そんなのわかってる」
 大地はぶっきらぼうに答えた。
 最初から疑われてはいなかったようでほっと胸をなで下ろす。そもそも話す相手がいないことは大地も知っているはずだ。噂が広まったのは、告白の現場を誰かに目撃されたからではないだろうか。あるいは彼女本人や同行の友人から漏れたとも考えられる。
 大地が自席に腰を下ろすと、クラスメイトの男子三人が机のまわりを取り囲んだ。先ほど声をかけてきた男子もその中にいる。これまでもたびたび大地と親しげに話をしていたので、初等部から仲良くしていた連中だろう。みな前のめりで鼻息が荒い。
「なあ、先輩ともうキスしたのか? その先は?」
「きのう付き合い始めたばかりだからね、これからだよ」
 キャーッ、と遠巻きに窺っていた女子たちの甲高い声が重なる。聞き耳を立てながら顔を赤らめている男子もいる。中学一年生にとっては刺激的ともいえる話で、クラス中が熱気に包まれているようだった。
 その中で、悠人だけは大地の横顔を見ながら眉をしかめていた。適当にごまかせばいいものを、どうしてわざわざ煽るようなことを言うのかわからない。イライラして仕方がない。それでも自分が口を出すのは筋違いなことくらい承知している。
「くっそ、おまえうらやましすぎるんだよっ」
「結城先輩、学校一かわいいとか言われてるんだぜ」
「くやしいけど橘となら釣り合ってるからなぁ」
 三人はそう言い、結城先輩について口々に語り始める。つられるようにまわりも話し出した。悠人は知らなかったが結構な有名人のようだ。聞こえてきた話を総合すると、かわいくて、おしとやかで、頭も良く、家は茶道の家元らしい。大地はどこまで知っていたのだろうか——。
「見世物じゃないんだから、騒ぐのもほどほどにしてくれよ」
「二人とも有名人なんだから無理だって、あきらめろ」
 学生鞄からノートや教科書を取り出しながら言う大地に、隣に立つ男子が笑って言い返す。
 そのときにわかに廊下の方がざわざわと騒がしくなった。直後、教室の外から長身の男子があわてた様子で飛び込んできた。
「橘! 結城先輩が来てるぞ!」
「えっ?」
 大地は手を止め、目を瞬かせながら声の聞こえてきた方に振り返った。その男子の後ろから困惑ぎみに姿を現したのは、きのうの美少女である。遠慮しているのか扉付近に留まったまま入ってこない。しかし、きょろきょろと見回して大地の姿を見つけると、ほんのりと頬を染めながら曖昧にはにかんだ。

 大地は結城先輩を教室の中に引き入れて、扉を閉める。
 クラスメイトが色めき立つが、野次馬であふれる外よりはましだと判断したのだろう。向かい合う二人はすっかり似合いの恋人どうしという雰囲気を醸し出していた。彼女は大地よりもすこし身長が低く、若干幼めの顔立ちで、二歳も年上にはとても見えない。
「ごめんなさい、こんなに騒ぎになるとは思わなくて」
「それだけ先輩が注目されてるんですよ」
 申し訳なさそうにする結城先輩に、大地はきれいな笑みを浮かべて答えた。クラスの女子は再びきゃあきゃあはしゃぎだす。しかし、悠人の眉間のしわは深くなる一方だった。白々しいことを言う彼女にも、演技じみた笑顔で接する大地にも、苛立ちがつのる。
「それで、どうしたんですか?」
「その、今日一緒に帰れないかと思って……」
「僕はもともと一緒に帰るつもりでしたよ」
 大地がにっこりと笑いかけてそう言うと、彼女は一瞬で顔を真っ赤にした。今にも湯気が上がりそうなくらいに。
「放課後、僕が先輩の教室まで迎えに行きますね」
「えっ……あ、うん……待ってるね……」
 顔を紅潮させたまま消え入りそうな声で答える。
 教室の熱気は最高潮に達した。少女漫画みたい、王子と姫だ、目の保養、うらやましい、など口々に言っているのが聞こえてくる。その中で、悠人だけが眉間にしわを刻んだまま真一文字に口をむすんでいた。胸の奥がじりじりと焼けつくのを感じながら——。

 結城先輩を野次馬から守るように教室の外まで送り出してから、大地は自席に戻ってきた。まだ注目を浴びたままなのに涼しい顔をしている。再び男子たちが興奮ぎみにまわりを取り囲んだが、すぐに始業のチャイムが鳴り、騒いでいたクラスメイトもみな席に戻っていった。
 平静を取り戻した教室で、大地はちらりと後ろの悠人に横目を流して言う。
「そういうわけだから」
「……わかった」
 悠人はそれだけ答える。
 言いたいことはたくさんあるが、こんなところでぶちまけるわけにはいかない。いや、彼と二人きりであってもぶちまけるわけにはいかない。すべて飲み込み、聞き分けよく振る舞うよりほかになかった。

「じゃあ、先輩を迎えに行ってくるかな」
 放課後になり、大地は手早く帰り支度をすませると、誰にともなくそう言って立ち上がる。間髪を入れずまわりの男子が集まってきて、どこへ行くんだ、何をするんだ、などと質問攻めにされていたが、まともに取り合わず笑いながらはぐらかしていた。
 悠人は先に帰ろうとひっそり席を立ったが、大地に見つかり腕を鷲掴みにされた。思わずムッとして睨みつける。
「何だ?」
「いい子で待ってろよ」
 クスッと笑って耳元で囁くようにそう言われ、カッと頭に血が上った。奥歯を食いしばり乱暴に腕を振りほどくと、大股で逃げるように教室をあとにした。

 悠人はひとりで橘の家へ行く。
 大地がいない理由をどう説明しようか頭を悩ませたが、彼がすべて話してくれていたらしい。大地に彼女ができたことも、その彼女と一緒に帰ることも、悠人が橘の家で待つことも、言わずとも執事の櫻井は知っていた。
「申し訳ありません。勝手なことばかり……」
「いえ、それを受け入れたのは僕ですから」
 平謝りする櫻井に、悠人は感情を見せず何でもないことのように答える。彼に謝罪されたところで意味はない。大地がそう思ってくれるわけではないのだから。
 もやもやしたまま櫻井に格闘術の稽古をつけてもらったが、体を動かしているうちにだんだんと気持ちが晴れてきた。比例するように体の動きも軽やかになっていく。今日は大地がいないので櫻井と二人きりだ。そのためか、悠人への指導にいつもより熱が入っているように感じられた。
 大地のいないあいだにもっと上達して勝てるようになろう。そして、女にうつつを抜かしているからだとか嫌味を言ってやろう。訓練を終えたあとタオルで汗を拭いて一息つき、青く澄んだ空を眺めながらそんなことを考えると、気持ちが高揚して無意識に口もとがほころんでいた。

「こんにちは」
 制服に着替えて中庭の見える部屋で宿題をしていると、大地の母親が紅茶とケーキを運んできた。大地と面差しのよく似た色白の美しいひとで、名を瑞穂という。これまでも何度か挨拶をしたことはあったが、こんなふうに給仕をするのは見たことがない。いつもは使用人が持ってくるのにどうして彼女が直々に。固まっている悠人の前に、流れるような所作で紅茶とケーキが置かれていった。
「大地から聞いているわ」
 彼女は悠人の向かいに腰を下ろして優美に微笑む。ゆるく弧を描いた形のいいくちびるは、大地のそれとよく似ていた。しかし、大地と違って含みのようなものは感じられない。取りつくろうのが上手いだけかもしれないが。そう思ったとき、ふいに彼女の表情が凛と真面目なものに変わった。
「悠人さん、あなたはそれでいいの?」
 まっすぐに目を見つめたままそう問いかけられ、悠人は怪訝に眉をひそめる。彼女がどういうつもりなのかわからない。
「……ご迷惑でしたらもう来ません」
「あら、うちは全然迷惑じゃないわ」
 彼女は大きな目をぱちくりさせてそう言い、くすくすと笑った。
「犬にしか興味を示さなかったあの子が、初めて興味を示した人間があなたなの。彼女ができてもあなたに逃げられないように必死になっているの。あの子がそこまで失いたくない友人を持てたことは嬉しいけれど、あなたの気持ちはどうなのかしらと思ってね」
 優しく気遣うような口調。
 悠人はギュッと胸が締めつけられて目を伏せる。彼女は知らないのだろう。自分は友人ではなく犬の代わりだということに。それでも——。
「仕方なく言いなりになっているのなら、無理しなくてもいいのよ。私からあの子に言い含めておくから」
「……僕も大地といたいと思っているから、ここに来ました」
 表情を引き締め、まっすぐ見つめながら噛みしめるように答えた。認めたくはないがそれが本心だ。友人にまではなれないのだとしても、せめてこの関係を継続したいと思っている。だからといって大地本人に素直に告げるつもりはない。たとえとっくに見透かされているのだとしても。
「本当に?」
 彼女はじっと悠人の瞳を見つめ返して尋ねる。
「はい」
 こころの奥底まで探られているようで落ち着かないが、それでも目をそらさない。
 やがて、彼女は花がほころぶようにふわっとやわらかく微笑んだ。
「でしたら、これからもよろしくお願いするわね」
 そう言われてもお願いされるようなことは何もない。ただ大地の言いなりになって待ちつづけ、振りまわされ、からかわれるだけなのだから——悠人は表情を硬くし、わずかに視線を落としながらこくりと頷いた。

「ただいま」
「……おかえり」
 空がほんのり朱く染まり始めたころ、大地が中庭の見える部屋に静かに入ってきた。読みかけの文庫本にしおりを挟みながら、きのうは言えなかった言葉で迎えると、彼はうっすらと笑みを浮かべる。けれど、その表情には疲労が色濃くにじんでいた。
「日が落ちるまでまだすこし時間があるけど」
「ああ、でも格闘術をやる元気は残ってないな」
 そう言うと、向かいに腰を下ろして机に突っ伏す。疲れたと吐息まじりにつぶやきながら。
 二時間も彼女とどこに行っていたのだろう。何をしていたのだろう。気にはなるが詮索するのはさすがに憚られる。それに、知ってしまえばますます心がかき乱される。大地と今のままの関係を続けるのならば、知らない方がいいのかもしれない。
「やっぱりおまえといるのが一番いいよ」
「……だったら、やめればいいだろう」
 机に伏せたまま告げられた言葉に、悠人は微妙な面持ちになりながらそう応じた。もともと彼女のことを好きなわけではなかったのだ。楽しいならともかく疲れるくらいならやめればいい。彼女と出かけることも、彼女と付き合うことも、彼女に関わることすべて。しかし——。
「おまえの思い通りにはならないさ」
 大地は腕にのせた顔を横向きにしてちらりと悠人に目を向けると、くすりと笑って言った。
 悠人はムッとして眉間にしわを寄せたが、それでも何も言い返さず、再び手元の文庫本を開いて読み始める。しかし、その内容は何も頭に入ってこなかった。