東京ラビリンス

いつか恋になる - 第4話 十六歳の誕生日

 夏が終わり、幾分か過ごしやすい気候になっても、澪が警視庁を訪れることはなかった。
 そして誠一の方もまた何の行動も起こせずにいた。会って謝罪することが彼女のためになるのかと、ただの自己満足ではないのかと、悩み続けたまま身動きがとれなかったのだ。最後に会ってからすでに二ヶ月以上経過しているが、今でも気が付けば彼女のことを考えている。無邪気に誠一を振りまわし、かき乱し、いなくなってしまった少女——いろいろな意味でとても忘れられるものではない。
 もしかしたら、彼女の方はもうとっくに誠一への思いを断ち切り、前向きに高校生活を楽しんでいるのかもしれない。ほかに好きな人ができているかもしれない。それどころか彼氏がいても何の不思議もない。そんなふうに思いをめぐらせるだけで胸がもやもやとする。
 どのみち彼女と付き合うつもりはなかったのだから、彼女に好きな人ができようが彼氏ができようが気にするのはおかしい。頭ではわかっていても心がついていかない。今まで告白されたことなど数えるほどしかなかったので、好きだと言われて無自覚に舞い上がっていたのかもしれない。だからこんなに引きずってしまうのだ。
「南野、あんまぼうっとしてるなよ」
「あ、はい」
 岩松警部補に声をかけられて我にかえった。
 仕事をしている最中は気を引きしめているつもりだが、今は聞き込みを終えて警視庁に戻るところである。こういうときはつい気が緩んで、勤務時間中にもかかわらず彼女のことを考えてしまう。先ほどから何度かほかの通行人にぶつかりそうになっていた。
「最近、心ここにあらずって感じだな」
「…………」
「仕事には影響のないようにしろよ」
「はい、気をつけます」
 仕事中はいつも行動をともにしているのだから見抜かれても不思議ではない。しかし、口うるさくない彼があえて注意したということは余程ひどかったのだろう。このままではいずれ取り返しのつかないミスをしてしまうかもしれない。彼女と出会ったあのときのように。
 もういいかげん気持ちに区切りをつけるべきだとは思っているが、それができないから苦労しているのだ。自分の心なのに自分の思うようにならない。薄い筋雲のかかるどこかくすんだ青空を見上げながら、目を細めて溜息をついた。

 まさか——。
 警視庁の近くまで来ると、歩道の端に見覚えのある制服を着た少女が立っていることに気付く。一瞬、信じられなかったがまぎれもなく澪だ。ドクンと大きく心臓が脈打つ。彼女も誠一たちに気付いたらしくぺこりと頭を下げた。
「おう、澪ちゃん!」
「お久しぶりです」
「元気にしてたか?」
「はい」
 いったいどうして彼女がここに——誠一が混乱している隣で、岩松警部補がにこやかに澪と挨拶を交わした。彼女の頭にぽんと大きな手をのせる。
「高校生活は楽しんでるか?」
「はい、勉強は大変ですけど学校は楽しいです」
「さては彼氏でもできたな?」
「彼氏はいません……でも、好きな人はいます」
「いいね、青春だ」
 岩松警部補が笑い、彼女も笑う。
 だが、誠一はいっしょに笑うことができずに視線を落とす。彼女は好きな人がいると明言したが、話の流れからすると同じ高校にいるということではないか。誠一の方にすこしも目を向けないことが、それを裏付けているような気がした。
「で、今日はどうしたんだ? 誰か待ってるのか?」
「はい、南野さんにお話があって来たんですけど」
「南野?」
 急に自分の名前が出てきてはじかれたように顔を上げる。目が合うと、彼女はきまり悪そうにぎこちない笑みを浮かべた。これは告白のけじめをつけに来たということだろうか。思わず顔がこわばるが、これでようやく気持ちに一区切りつけられるかもしれないと思う。
「それならこんなところで待ってないで、捜査一課を訪ねてくれればよかったのに……って、ああそうか……すまなかったな、何か佐川が余計なことを言ったみたいで」
 岩松警部補は話しながら気付いたようで、顔をしかめて頭をかいた。
 彼女はこころなしか自嘲めいた笑みを浮かべて肩をすくめる。
「いえ、私もそうかなってちょっと思ってましたから」
「いやいや、佐川以外はみんな歓迎していたんだぞ?」
「そうだったらいいんですけど」
 あまり信じていない様子の彼女に、岩松警部補は優しい目を向ける。
「気が向いたらでいいがまた顔を見せてやってくれ、佐川のいないときにでも。みんな澪ちゃんのことを結構心配してたからな。南野なんか、澪ちゃんのことで頭がいっぱいで使いものにならなかったくらいだ」
「ちょっ……岩松さん……!」
 誠一は顔が熱くなるのを感じながらあたふたとする。そこまで察しがついていたのか、あてずっぽうなのかはわからないが、彼女の前でこんな誤解を招くような言い方をされては困る。これではまるで自分の方が恋をしているみたいだ。
「南野、おまえ澪ちゃんと喫茶店でも行ってこい」
「あ、はい……」
 そういえば彼女は誠一に話があって来たのだと言っていた。岩松警部補がどういうつもりなのかはわからないが、こんな往来でする話でもないような気がするし、まして捜査一課の同僚たちに聞かれても困るので、そうするのがいいだろうと思う。
「じゃあ、澪ちゃん行こうか?」
 そう声をかけると、彼女はあわてて両手をふるふると横に振った。
「いえ、お仕事が終わってからでいいです」
「俺がいいって言うんだから気にするな」
 誠一より先に岩松警部補が答えた。じゃあな、と手を上げて警視庁へ戻っていく。
 残された誠一がちらと隣に目を向けると、彼女も遠慮がちにこちらを窺っていた。互いにきまり悪そうにはにかむ。彼女にもう一度「行こうか」と声をかけて頷き合ったあと、二人並んで歩き出した。

 二人はこのまえと同じ喫茶店に入った。
 どういうわけか相変わらず客が少なくひっそりとしているが、これからする話のことを考えるとその方がありがたい。ただ、客が少ないぶん店員に注目されてしまうのは避けようがない。カウンターの中にいる男性店員は無関心な素振りを貫いているが、ウエイトレスはちょくちょく好奇の目を向けてきている。半年前も同じ店員だったので、おそらく澪が告白したときのことを覚えているのだろう。
「ケーキもおごるよ」
「いいんですか?」
「俺も食べたいから」
 そう言い、二人ともそれぞれケーキと飲み物を選んで注文する。本当は佐川の件に対するお詫びのつもりだったが、押しつけがましいような気がしてそう言えなかった。こんなことを蒸し返しても嫌な気持ちにさせるだけだ。それならいっそ何も言わずに喜んでもらった方がいいだろう。
 注文したものが来るまでのあいだ、肝心なことは避けつつ学校や夏休みのことを訊くと、彼女はくるくると表情を変えながら語ってくれた。夏休みといってもなぜか普通に授業があったりして、本当に休みになる日は少ないらしく、しかも結構な量の宿題があるので大変だったとか。それでも一週間ほど兄とともに長野の別荘へ行っていたとか。その別荘での出来事なんかもあれやこれやと聞かせてくれた。
 耳を傾けて相槌を打ちながら無意識のうちに心がはずんでいく。彼女と話をする、ただそれだけのことがどうしてこんなにも楽しいのだろう。話していて楽しいから好きになったと彼女は言っていたが、何となくわかるような気がしてきた。誠一も恋愛感情ではないにしろ好意を持っている自覚はある。あと三年早く生まれてくれていたら付き合えたのに、とどうにもならないことを考えて心がざらつくのを感じた。
 ケーキと飲み物が運ばれてきて、誠一はコーヒーに口をつけてショートケーキにフォークを入れる。彼女も嬉しそうにガトーショコラを口に運ぶと、おいしいです、とあのときと同じようにほわりと頬をゆるめた。その笑顔に、誠一は罪悪感を刺激されてそっとフォークを置く。
「ごめんな、澪ちゃん」
「えっ?」
 彼女はぱちくりと瞬きをして、顔を上げる。
「十六歳になっても気持ちが変わらなかったらなんて言ったから、俺に会うために警視庁に来るようになったんだろう? 学校帰りに面倒だったよな。澪ちゃんの時間をずいぶん無駄に使わせてしまったし、そのうえ嫌な目にも遭わせてしまって……本当に申し訳ない」
「そんな、むしろ私の方こそみなさんにご迷惑をおかけして申し訳ないなって」
「澪ちゃんのことは、みんな……佐川以外は迷惑だなんて思ってなかったよ」
 それは慰めではなく事実である。
 彼女は戸惑ったように顔を曇らせたが、岩松さんも言ってただろう? と畳みかけると曖昧に笑みを浮かべた。
「私、南野さんに会いに行ったことを面倒だとか無駄だとか、そんなふうに思ったことは一度だってありませんよ? ほんのすこしでも会えたらすごく嬉しかったし、会えなくてもメモを残すことがすごく楽しかった。たとえ報われなかったとしても、私にとってあの時間を過ごせたことはとても素敵な思い出です」
 やわらかく微笑みながら淡々とそう語った彼女を見て、誠一はわずかに視線を落とす。あの日々は彼女の中ではもう過去になっていた。わかっているつもりだったが、あらためて思い知らされると寂しい気持ちになる。
「私、今日で十六歳になりました」
「え……ああ、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
 一瞬ドキリとしたものの、どうにか平静をよそおい落ち着いて受け答えした。そういえば誕生日は九月の終わりごろだと聞いていた。けじめをつけに来たのだろうとは思っていたものの、なぜ今なのかすこし不思議だったが、十六歳になったからだとすればこのうえなく腑に落ちる。
 彼女は静かにフォークを置いて真顔になると、背筋を伸ばして誠一を見つめる。
「私、気持ちは変わりませんでしたよ」
「えっ?」
「会えないあいだもずっと好きでした」
 好きって……えっ……?
 予想とは真逆のことを言われてわけがわからず目を瞠った。どくどくと鼓動が激しくなっていく。もう心変わりしたものとばかり思い込んでいたが、その憶測はまったくの的外れだったということだろうか。だとすれば、彼女が誠一に会いに来た理由はただひとつ——。
「つきまとうのは今日で最後にします。だから、もう一度だけ考えてもらえますか?」
 そう前置きすると、彼女は一呼吸していっそう真剣な顔になる。
「南野さん、好きです。私と付き合ってください」
「…………」
 薄紅色の小さく愛らしいくちびるから紡がれたのは、半年前のあのときと同じ言葉だった。全身にじわりと汗がにじむ。あせりで頭はまともに働かない。しかしながら目の前で彼女が返事を待っているという重圧に、考えのまとまらないまま急き立てられるように口をひらく。
「澪ちゃん……澪ちゃんの気持ちは本当に嬉しく思ってる。俺なんかのことを好きだなんて言ってくれて。でも……自分から条件を出したのに申し訳ないんだけど、十六歳ってやっぱり問題で……」
「そんなの納得できません」
 彼女は怒りを抑えたような低い声で遮ると、眉をひそめて誠一を睨む。
「私のことが好きじゃないならあきらめますけど、年齢を理由に断られるなんて納得いかないです。十六歳まで待ったんですよ? 十六歳なら結婚だってできるのに恋するのはいけないんですか? 好きになったひとが大人だったらあきらめないといけないんですか? 意味がわからないです。だったらもういっそ結婚してください!」
「ちょっ……! 澪ちゃん落ち着いて」
 瞳を潤ませながら暴走する彼女に驚き、腰を浮かしてあたふたとなだめる。彼女はすぐ我にかえり、しゅんとうなだれてごめんなさいと口ごもると、いまにも泣きそうな顔で自嘲の笑みを浮かべた。
「断るなら嫌いだと言ってください。年齢を理由にされるのはもう嫌です」
「澪ちゃん……」
 彼女の切実な思いが胸を衝いた。
 しかしながら嫌いでもないのに嫌いとは言いたくない。嘘でも言ってあげるのが優しさかもしれないが、それでも言いたくない。もしもほかに何か解決策があるのなら——目を伏せて膝にのせたこぶしを握りしめながら、必死に考えをめぐらせる。
 息の詰まりそうな重い沈黙が続いた。
 踏ん切りをつけるように奥歯を食いしばってようやく腹を括ると、ゆるやかに頬を伝う汗を拭いもせず、ゆっくりと顔を上げて真正面に座する彼女を見つめる。少しも目をそらすことなく、真剣に、真摯に、まっすぐに。
「付き合おう」
「えっ?」
 彼女は意表を突かれたようにきょとんとした。誠一はふっと微笑んで言葉を継ぐ。
「仕事が不規則だから毎週は会えないと思うけど、それでもいいなら付き合おう。ただ、やっぱり世間的にはまずいから内緒にしてもらえると助かる」
「……はいっ!」
 涙を溜めたまま、彼女はこれ以上ないくらい顔を輝かせて頷いた。
 その嬉しそうな様子に誠一は目を細める。付き合おうと決めたのは、健気で一途な気持ちに絆されたからに他ならない。もちろん多少のリスクを負ってもいいと思うくらいには彼女を好きになっていたのだが、それはあくまでも恋愛感情とは別物である——そんなことを思いながらも、ほんのすこし浮かれる気持ちを自覚していないわけではなかった。