誰がために鼓動は高鳴る

第3話 彼の敷いたレール

 総司と付き合うようになって一年。
 陽菜のアルバイトが休みの日には必ずといっていいほど二人で会っていた。美術館や博物館などを見てまわったり、映画や芝居を観に行ったり、ショッピングセンターに出かけたり、あるいは彼のアパートで何をするでもなく過ごしたり。陽菜にとってはすべてが未知のもので世界が広がるように感じた。
 総司は何も知らない陽菜を決して馬鹿にはしなかった。どんなことでも呆れることなく丁寧に教えてくれる。義務感から仕方なくという感じではない。彼自身も教えることを楽しんでいるように見えた。この人は絶対に陽菜を傷つけない。そう信じられたから安心して一緒にいられた。
 そうこうするうちに、いつしか自然と笑えるようになっていた。あれほど表情が動かなかったのが嘘のようだ。今でも愛想笑いは苦手だが、それでもアルバイト先の洋菓子店では随分よくなったと褒められた。表情にも声にも生気が出てきて明るくなったと。すべて総司のおかげである。

「クリスマスの次の日、一泊できないかな?」
 総司と食事に出かけた帰りの車中で、ふいにそう尋ねられた。
 アルバイト先が洋菓子店なのでクリスマスイブとクリスマスは休めないが、翌日以降ならたぶん問題はない。でも一泊というのはどういうことだろう。こんなことを言われたのは初めてで戸惑っていると、彼は赤信号で車を止め、ハンドルを握ったまま助手席の陽菜に目を向けて微笑む。
「神戸にイルミネーションを見に行こうかなって。遠いから日帰りは難しいんだ」
 陽菜は目を大きくした。昨年、雑誌で見て興味を持ったことを覚えてくれていたのだ。確かにいつか二人で見に行こうとは話していたものの、夢物語だと話半分に聞いていたのに。
「楽しみです」
「よかった」
 ちょうど青信号になり、彼はニコッと微笑んで車をゆっくりと発進させた。
 その横顔を密かに見つめながら、陽菜はワイパーの規則的な音と鼓動が同調していくのを感じた。
 総司と付き合うようになり、あまり迷惑を掛けないようにと恋愛小説などで勉強したので、恋人どうしがどういうことをするのかはわかっているつもりである。けれど総司とのあいだにはいまだに何もない。抱きしめられて鼓動を確かめられることはよくあるが、キスも、その先も、しようとする気配すらない。
 友人のいない陽菜には何が一般的なのかよくわからない。ただ恋愛小説ではたいていの場合もっと展開が速いので、焦っているわけではないが、幾何かの不安を感じずにはいられなかった。何も知らなさそうな陽菜に遠慮をしているのではないか、陽菜を怖がらせないために手を出さないのではないか、あるいは貧相な顔と体のせいでそんな気も起きないのではないか、と。だが一泊するということは——。
「あー……ハルの嫌がることはしないから安心して?」
 じっと横目で総司を見つめたまま思案していると、彼はきまりが悪そうに言い添えた。嫌がることというのが何を指しているかはだいたいわかる。けれど。
「私、嫌がったりなんかしません」
 めずらしく気色ばんで言い返した。運転席の彼がはじかれたようにこちらに振り向いたが、すぐに前を向いて運転を続ける。しかしその表情には戸惑いの色が浮かんでいた。陽菜は急に恥ずかしくなり顔が熱くなるのを感じた。
「いえ、あの、深い意味は……」
「ハル、わかって言ってる?」
「……はい」
 思いのほか真剣な声で問われて嘘はつけなかった。彼がどう思っているのかはわからないが、陽菜は何も知らない純粋無垢な子供ではない。もっとも恋愛小説程度の曖昧な知識に過ぎないのだが。
「じゃあ、そのつもりでいるから」
 再び赤信号で止まると、彼はそう言ってにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 陽菜は火を噴きそうそうなほど顔が熱くなり、内心でどうしようと狼狽えながらもこくりと頷いてしまう。鼓動が早鐘のように打ち始めたが、だからといって後悔する気持ちはすこしも湧いてこなかった。

 クリスマスの翌日。
 陽菜は総司とともに彼の運転する車で神戸へ向かった。高速道路に入るのはこれが初めてである。総司は制限速度を守って安全運転してくれたが、周囲の車が爆走していくのがすこし怖かった。顔をこわばらせていると、何度もパーキングエリアやサービスエリアに立ち寄ってくれた。
 昼過ぎに神戸に着くと、まずは予約したホテルに向かおうという話になった。チェックインして駐車場に車を置いてくるという。しかし、宿泊予定のホテルを前にして陽菜は唖然としてしまう。
「すごい……」
「いや、建物が大きいだけだよ」
 彼は平然とそう言うものの、田舎者の陽菜はこんなスケールの建物など見たことがなかった。大きさもさることながら個性的な形もすごい。大きな建物はみんな四角いものだと思い込んでいたが、このホテルはなだらかな曲面を描いている。絵葉書みたいな港の風景とも見事に調和していた。
 彼は建物が大きいだけなどと言っていたが中もすごかった。ロビーやフロントも予約した部屋も立派すぎてうろたえる。ベッドなどいったいどちらが縦なのかわからない。五人くらい並んで寝られるのではないだろうか。本当に二人用なのだろうか。すごいを通り越してもはや意味がわからない。
「おいで、いい景色が見られるよ」
 いつのまにか荷物を置いてバルコニーに出ていた総司に手招きされ、陽菜も鞄を下ろしてあとを追う。外に出ると冷たい潮風が吹き付けてきたが、火照った頬には心地良く感じられた。彼に手を取られながらあたりに目を向けると、角の部屋らしく広範囲に海や港町が見渡せた。ガイドブックに載っていた観覧車や赤いタワーも見える。
「夜になるとまたきれいだろうね」
「楽しみです」
 そう言って二人で微笑み合い、しばらく風景を楽しんでから部屋に戻った。

 イルミネーションが始まるまでは時間があるので、観光に出かけた。
 まず、陽菜がガイドブックを見て興味を示した異人館をめぐることになった。タクシーで近辺まで乗り付けると有名な洋館を見て歩く。物語の中に出てくるような建物にそこから見える風景。非現実的な異国情緒を感じさせるそれらに陽菜は心が躍るのを感じた。
 坂が多かったので総司は心配してくれたが、すこし疲れただけでなんてことはない。適度に休憩を挟んでくれたのもよかったのだろう。
 異人館近辺の洋食店ですこし早めの夕食をとってから、イルミネーションを見に向かった。到着するとすでにライトアップは始まっていた。ちょうど日が沈んだころだが、すこし出遅れたようであたりは人であふれかえっている。総司に庇われながら歩いても小柄な陽菜は群れに埋もれてしまう。肝心のイルミネーションを見るのも一苦労だった。
 それでも光の宮殿のようなイルミネーションは壮観だった。写真で見るのとその中に入るのとでは全然違う。人混みに揉まれてゆっくりと見ることはできなかったが、それでも行ってよかったと心から思えた。

「こっちのイルミネーションはゆっくり見られるよ」
 ホテルに戻ると、部屋からはライトアップされたタワーや観覧車など港町の夜景が見えて、これはこれできれいだった。何より大勢の人に揉まれることなく二人きりで見られるのがありがたい。バルコニーにはティーテーブルも用意されていたが、真冬の夜にここでくつろぐのは厳しいだろう。
「ハル」
 ふいに熱をはらんだ甘い声で呼ばれる。ドキリとして振り向くと、彼の大きな手で優しく頬を包み込まれた。夜風で冷えた肌があたためられていく。手すりを掴んだ陽菜の左手に力がこもった。
「好きだよ、ハル」
「私も好きです」
 総司はどこか切なげに笑みを浮かべて、ゆっくりと身を屈めながら顔を近づけてきた。陽菜は息を詰めて震えるまぶたを閉じる。まもなくあたたかくてやわらかいものが唇にふわりと触れた。心臓が壊れそうなほど強く収縮し、体中がドクドクと脈打つように感じる。
 やがて静かに唇が離れていった。そろりとまぶたを上げたとき、正面の彼はくすりと笑っていた。
「大丈夫かなぁ」
「だ、大丈夫です」
 カアッと頬を赤らめながらむきになって言い返すと、笑顔のままの彼にいきなり横抱きにされた。足が地面を離れて体が宙に浮く感覚に、思わず身をすくめる。しかしながら彼は構うことなく夜景に背を向けて、空調のきいたあたたかい部屋へと戻っていった。

「あの、言っておきたいことがあって」
 ベッドに横たえられて何度も口づけられたあと、陽菜はセーターに掛けられた手をあわてて押しとどめて言う。彼は不思議そうな顔をしながらも素直に耳を傾けてくれた。
「私の胸には手術跡が残っています。だから、気になるのなら上の服はそのままでも……」
 付き合う前に手術跡が残っていることは告げてある。それでもいいと言ってくれた彼の気持ちを疑うわけではないが、実際に目にするとあまり気持ちのいいものではないだろう。陽菜自身ですら、いまだに傷を見るたびすこし気持ちが沈むくらいなのだから。
 しかし、彼は愛おしげに目を細めて微笑んだ。
「僕は気にしないよ。そのおかげでハルが生きられたんだから、むしろ感謝しているくらい」
 そう言い、抵抗をやめた陽菜の服をゆるゆると脱がせていく。やがて病的なまでに白い上半身をあらわにされると、寒くもないのにふるりと震えた。彼の視線はじっと中心の傷痕に注がれている。いたたまれずにふいと横を向いて目をつむった。
「触れても大丈夫?」
「え……はい……」
 もう完全にくっついているので傷口が開く心配はない。もちろん痛みもない。だからといってわざわざ触れるつもりなのだろうかと戸惑っていると、彼はそこに唇を寄せて慈しむように這わせ始めた。ぞくぞくとした何かが体中を駆けめぐっていく。
「ハルの鼓動が聞こえる」
 総司はささやかな胸に頬を寄せて喜びをにじませながら言った。羞恥やら感慨やら雑多な感情が綯い交ぜになり、陽菜はわけもわからず目が潤む。
「今にも心臓が爆発しそうです」
「丈夫な心臓だから心配ないよ」
 総司は胸に顔を埋めたままくすりと笑ってそう言うと、上体を起こし、頭の両横に手をついて陽菜を真上から覗き込む。そのときには凛とした真剣な面持ちになっていた。
「ずっと、ずっと僕のものにしたかった」
「私も、そうなりたいと願っていました」
「ハル……」
 彼はこころなしか目を潤ませて微笑んだ。再び傷痕に唇を寄せて強く吸い上げ、そして——。

 翌朝。
 目が覚めると、広いベッドの上で背後から総司に抱きしめられていた。ふたりとも裸のままだ。いつどうやって眠りについたのか記憶にないが、彼とのあいだに起きたことはだいたい覚えている。ところどころ記憶が途切れているのは意識を飛ばしたからだろう。
 あらためて思い返すと恥ずかしさに身悶えしたくなる。現実は恋愛小説よりもずっと生々しい。体のあらゆるところに指や舌で与えられた快感、混じり合う唾液や汗、知らなかった独特の匂い、初めて目にする総司のすこし苦しげな表情、そして誰にも見せたことすらない場所に迎え入れた痛み——すべてが陽菜に刻み込まれている。
 もちろん後悔なんてしていない。どうにかなってしまいそうなほど恥ずかしかったが、それ以上に幸せを感じることができた。彼と深いところでつながれたことがとても嬉しかった。取り繕うことも忘れて無我夢中で抱き合ったことで、いままで以上に彼との距離が近くなったのではないかと思う。
「ん……ハル、起きた?」
 彼の腕がすこし窮屈で身じろぎしていると、背後から眠そうな声が聞こえてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
 陽菜にまわされた腕に力がこもった。彼の素肌が背中に密着する。
「やっとひとつになれたね、ハル」
 耳元で囁かれてカッと全身が火を噴きそうなほど熱くなる。顔もさぞかし真っ赤になっていることだろう。ひとりで思い返しているだけでも恥ずかしかったのに、彼にこんなことを言われたらどうしていいかわからない。上掛けをひっかぶり顔を隠そうとした、そのとき。
「……え?」
 自分の薬指に見知らぬ指輪がはまっていることに気が付いた。細いリングの中央には繊細にカットされた透明な宝石が輝き、その両脇にピンクと透明の小さな宝石が二粒ずつ寄り添う、シンプルながらも可愛らしいデザインである。きのうは見ていないので寝ているあいだに彼がはめたとしか考えられない。クリスマスプレゼントだろうかと目をぱちくりさせていると。
「ハル、一生大切にするから一緒に東京へ来て」
「え、あの……どういうことですか?」
 話が掴めない。もぞもぞと彼の方に向きなおると、彼は目を細めて愛おしげに微笑んでいた。
「僕と結婚して」
「?!」
 驚きのあまり目を見開きはじかれたように跳ね起きた。まさか、これ婚約指輪? あらわになった胸元をあわてて上掛けで隠しながら、口をパクパクさせて左手の指輪を掲げて見せる。彼は横になったまま魅惑的な笑みを浮かべると、ゆっくりと体を起こして陽菜と向かい合った。
「ハルは朝比奈グループって知ってる?」
「聞いたことは……えっ、総司さんて……」
 絶句した陽菜に、彼は苦笑して肩をすくめる。
「僕は気楽な三男坊だから後は継がないよ。ただ、そろそろ帰ってこいって言われてるんだ。ふらふらしてないで仕事を手伝えってだけの話で、同居を望まれてるわけじゃないから、結婚したらふたりきりでどこかに住もう。病院もちゃんと東京で診てもらえるように手配する」
「え……あの……」
 思考が追いつかずなかなか言葉が出てこないが、とても頷ける話ではない。
「無理、です」
「大丈夫だよ」
 そう言われても、陽菜には根拠のないただの慰めにしか聞こえなかった。胸元でギュッと上掛けを握りしめる。ふいに左手の薬指にはめられた分不相応な指輪が目について、胸に刺すような痛みが走った。
「私、学歴は中卒だし、体も丈夫じゃないし、何もできないし、何も知らないし、家は貧乏だし、美人でもないし……立派な家にはふさわしくない人間です」
 自分を卑下したくはないが客観的事実だ。深くうつむいて指輪を外そうとすると、その手を優しく押しとどめられた。
「家とは関わらなくていい。僕といてくれるだけでいいんだ」
「総司さんが良くても、ご両親がお許しにならないと思います」
「放蕩息子の僕には何も期待なんてしてないから平気だよ」
 総司はあっけらかんと言うが、これだけ容姿端麗で頭脳明晰な人に何も期待しないなどありえるのだろうか。人当たりも良く、教えるのも上手く、段取りも完璧で、きっと仕事でも有能に違いないのに。怪訝に思っていると、顔を曇らせた彼にしがみつくように抱きしめられた。
「お願い、ハル……僕と一緒に幸せになろう? 僕を信じて?」
 それでもやはり総司の家族が許してくれるとは思えない。関わらないですむとも思えない。家が釣り合わないというのももちろんあるが、それ以前に陽菜自身に問題が多すぎる。誇れるところは何ひとつなく欠点しかないのだ。挨拶に行ったら面と向かって詰られるかもしれない。ひとい言葉で非難されるかもしれない。ずたずたに精神を叩きのめされて総司からも捨てられるかもしれない。
 ——そうか、怖くて逃げているんだ。
 自分の心理状態を自覚すると、急に視野が大きく広がったように感じた。
 考えてみれば、まだ誰に反対されたわけでもないのに、勝手な思い込みだけであきらめるなんて愚かしい。心臓移植を受ける前のあのころは死ぬことさえ怖くなかったのに、総司に守られているうちにすっかり臆病になってしまった。もともとなかった命だと思えば何にでも立ち向かえるはずだ。陽菜にだって総司と幸せになりたい気持ちはあるのだから。
「わかりました。総司さんを信じてみます」
「ありがとう、ハル……!」
 総司は満面の笑みで喜びをあらわにしながらそう言うと、勢いよく陽菜を抱きしめ直した。陽菜もそっと背中に手をまわす。二人の心音がトクトクと心地良く融け合い、知らず知らず表情がやわらいでいくのを感じて吐息を落とした。