東京ラビリンス

第28話 交渉

 トゥルルルル、トゥルルルル——。
 学習机の隅に置いてある携帯電話が鳴り出した。
 そろそろ寝ようとノートや教科書を片付けていた遥は、携帯電話に手を伸ばすが、そのディスプレイを目にして怪訝に眉をひそめた。発信者番号が非通知になっているのだ。短い逡巡の後、二つ折りのそれを素早く開き、通話ボタンを押して耳に当てる。
「……はい」
『遥、久しぶり!』
「澪?!」
 電話の向こうから聞こえた声は、疑いようもなく澪のものだった。しかし、行方が掴めないまま三週間が過ぎ、そこへいきなり本人から電話など、とてもにわかには信じられない。思わず息を呑んで前のめりになる。
「本当に澪なの? 無事なの? 今どうしてるの?!」
『うん、長いこと心配かけて本当にごめんね。でも元気にしてるから。どこかは教えられないんだけど、武蔵……えっと、私を連れ去った人のところにいるの』
 どうやら武蔵というのはあのバイク男の名前らしい。澪の言い回しから察するに、その武蔵に命じられて電話をしてきたものと思われる。当然ながら、それには何らかの目論見があるはずだ。考えられることといえば——。
「そいつが僕たちと取引したいって?」
『取引っていうか、交渉っていうか……うん……具体的なことについてはおじいさまと話すから替わってほしいんだけど、その前にあらかじめみんなに警告しておきたいことがあるの』
「わかった、何?」
 遥が尋ねると、彼女は小さく息を継いで毅然と告げる。
『私と武蔵の居場所を捜さないで。三億円の懸賞金も取り下げて。もし無断でここを突き止めたとしても、私は絶対に帰らないし、逆に武蔵のことを全力で守るから。私がみんなのところへ帰るのは、武蔵が目的を達成したときだけ』
「その目的は?」
『地下室に監禁されていた女の子を取り戻すこと』
 遥は直接見ていないが、研究所の地下室には実験体の幼い少女が監禁されていた。どうやら彼女が唯一の生き残りであると思われる。それゆえ、研究を継続するためには手放せなかったに違いない。美咲は逃亡の際にその少女も一緒に連れ去っていたのだ。それを「取り戻す」というのだから、武蔵は少女の身内か仲間なのだろう。
「つまり、澪を返してほしければ、無用な詮索はせず黙って手を貸せってこと?」
『うん……まあ、だいたいそういうことかな。おじいさまにも伝えてくれる?』
「わかった。しばらく待ってて」
 遥は携帯電話を下ろすと、微かに眉を寄せる。
 澪の声に怯えた様子は窺えない。どうやら自らの意思で誘拐犯に協力しているようだ。少女に対する同情ゆえの行動だとすれば頷ける部分もあるが——あの男に聞かれている可能性が高いため、下手に突っ込んだことを訊くわけにもいかない。さしあたり澪に命の危険はないと判断し、通話状態の携帯電話を手にしたまま立ち上がった。

「しばらく待ってて、だって」
「ああ、聞こえた」
 布団に足を崩して座っていた澪は、携帯電話を耳から離すことなく隣の武蔵にニコッと笑いかけた。肩に掛けたバスタオルで軽く押さえるように濡れた髪を拭く。しかし、対照的に彼の表情はいまだ硬いままである。
「心配しなくても約束は守るよ。一緒に頑張ろう?」
「……ああ、わかってる」
 ようやく武蔵の顔が少し和らいだ。
 そのことにほっとして小さく息をつくと、不意に大きな手で肩を抱き寄せられた。思わずきょとんとして彼を見上げる。何を考えているのかはよくわからなかったが、肩を抱く手の力強さから、堅い決意が伝わってくるように感じた。素直に彼の腕に寄りかかったまま、声を立てずにくすっと小さく微笑んだ。

「澪、待たせたな。よく電話をしてくれた」
『ご面倒をお掛けして申し訳ありません』
「命に別状がなく何よりだ」
 遥が電話を受けてから二十分ほど経ったころ、ようやく剛三と澪が話し始める。
 電話口で澪を待たせている間に、書斎の隅にある打ち合わせスペースに大急ぎで準備を整えた。各自の部屋にいた悠人と篤史を呼び集め、全員が電話の内容を聞けるよう、スピーカに音声を飛ばすようにしたのである。念のため録音もしている。すべて剛三に命じられて遥が行ったことだ。
「武蔵とやらに詳しく話を聞きたい。替わってくれ」
『わかりました』
 澪は神妙に答える。しかし、そのあと電話の向こうから聞こえてきたのは、誘拐犯とその被害者とは思えない、随分とざっくばらんなやりとりだった。
『武蔵、おじいさまが替わってって』
『条件を呑むって言ってたか?』
『とりあえず詳しく話を聞きたいみたい』
 携帯電話を口もとから離して会話しているのだろう。声が遠かったが、その内容は十分に聞き取ることができた。ガサガサ、と何かが擦れるような音がしたあと、武蔵と思われる男性のやけに挑発的な声が響く。
『どうも、橘剛三さん』
「武蔵だな」
『仮の名前だけどな』
 武蔵は茶化すような口調でそう言ったが、剛三を含め、誰も本名だとは思っていないだろう。
「君のことはひとまず武蔵と呼ばせてもらうことにしよう。まず始めに伝えておく。ここには秘書の楠悠人、孫の遥、協力者の志賀篤史の三人が同席しており、スピーカーで電話の音声を聞いている。問題はあるか?」
『構わない。了解だ』
 その返事に、剛三は厳めしい顔のまま頷くと、さらに眉根を寄せて低い声で尋ねる。
「ところで、武蔵……澪に乱暴狼藉など働いてはおらぬだろうな?」
『ああ、三食昼寝付きの極楽生活だ。快適すぎて少し太ったくらいさ』
『ちょ、うそっ、ほんとに太った?! トレーニングしてたのにっ!!』
 澪は電話の向こうで狼狽えた声を上げた。しかし、その内容は脱線だと云わざるを得ない。もっとも誘導したのは武蔵であるが——。
『俺としては、もう少し肉をつけてもいいと思うけどな』
『武蔵の好みなんてどうでもいいのっ!』
 むきになって喚きちらす澪の声と、愉快そうに笑う武蔵の声が重なり合う。
 遥、悠人、篤史の三人は、怪訝に眉をひそめつつ互いに顔を見合わせた。おそらく三人とも同じことを考えているのだろう。悠人の顔面からは徐々に血の気が失せていく。そして、剛三は携帯電話を耳に当てたまま、呆れ果てたような顔をしていた。
「……武蔵、聞いておるか」
『ああ、ちゃんと聞いてるぜ』
 武蔵は笑いを含んだ声音でそう返事をしたあと、またしても澪をからかい出す。まるでじゃれ合っているかのようなこそばゆい雰囲気が、電話のスピーカーを通して伝わってきた。
 剛三はわざとらしく咳払いをした。
「澪が元気なのはよくわかった。そろそろ本題に入りたいのだが」
『ああ、そうだな』
 武蔵は急に落ち着いた口調になり、説明を始める。
『俺の目的は、姪のメルローズを救い出すこと。橘美咲が拉致して実験体にしていた少女だ。この三週間、インターネットを通じて橘美咲の行方を捜し、匿名のメールで連絡を取るところまでは漕ぎ着けたが、正体を怪しまれて連絡を絶たれてしまった。だが、そのときに得た情報があれば、そちらさんのハッカーなら行方を突き止められる、と澪は言っている』
「その情報が確かなものであれば、可能だろう」
 剛三の答えを聞き、篤史は神妙な面持ちでみんなに頷いて見せた。これまでは公安に付け入られないように、ハッキング行為自体を控えていたが、それは剛三の指示を受けてのことである。篤史自身は、ヘマせずハッキングする自信があるのに、とよく不満げにそうこぼしていた。
『メルローズを無事に救い出せれば、必ず澪を解放すると約束する。俺としては、橘美咲の家族なんか信用できないし、協力を頼む気にもなれなかったが、澪の強い希望でそうすることにした。俺を、そして澪を裏切らないでくれよ』
「美咲はどうするつもりだ。報復するのか」
『復讐が何も生まないことはわかっている。俺はメルローズを無事に取り戻せればそれでいい。橘美咲を傷つけるようなことは決してしない。澪ともそう約束した』
 隣にいる澪が反論しないところから察すると、そういう約束をしたことは事実のようだ。だが、所詮は口約束に過ぎない。単純な澪を丸め込むことなど容易いだろう。その程度のことがわからないはずはないのに、なぜか剛三は意外なほどあっさりと首肯した。
「わかった。君たちの居場所を捜さない、三億円の懸賞金を取り下げる、君と協力して美咲を捜す、メルローズを救出する——我々への条件をまとめるとこういうことだな。そして、最終的にメルローズが無事に救出できれば、澪を我々に帰してくれると」
『いや、メルローズ救出は俺の仕事だ。橘美咲とも俺が交渉する』
「よかろう。情報の受け渡しについては、篤史と直接話をしてくれ」
『了解』
 武蔵からの返答を聞くと、剛三は通話状態のまま携帯電話を篤史に差し出した。彼は横柄ともいえる態度でそれを受け取り、パイプ椅子の背もたれに身を預けながら、いつもどおりの些か不躾な物言いで切り出す。
「もしもし、武蔵さん?」
『天才ハッカーか?』
「篤史だ。専門的な知識は?」
『底辺ハッカー程度だ』
「なるほど」
 篤史はニヤリとした。武蔵を馬鹿にしているわけではなく、言いまわしを面白がっているのだろう。
「こちらから方法を指示するが、不明な点があれば尋ねてほしい」
『ああ、手間を掛けるかもしれないが、よろしく頼む』
 意外にも、武蔵は礼をわきまえた分別のある発言をした。人質を取っている誘拐犯とは思えない態度である。先ほどの会話を思い返してみても、冷静な交渉であり、脅迫めいたものは感じられなかった。そういう人物だからこそ、澪が心を許しているのかもしれない。ただ、それが彼の本性であるかどうかは、遥にはまだ見極めることができなかった。

 しばらく、データの受け渡しに関しての専門的なやりとりが続いた。
 篤史が状況を聞き取って具体的な指示を出し、武蔵が実行して報告する、さらに篤史が愛用のノートパソコンを使って確認する、という流れを繰り返している。傍らで聞いている限り、特に問題なくすんなりと進んでいるようだ。篤史がわかりやすく説明しているとはいえ、理解している武蔵もそれなりの知識を持っているのだろう。
 ときどき、澪が隣から口を挟んでいるのが聞こえる。当然ながら有益なアドバイスなどではなく、興味本位であれこれ尋ねているだけである。だが、二人の仲睦まじさを感じさせるには十分だった。遥は無意識のうちに眉を寄せ、悠人も苦々しい表情を浮かべていた。
 やがて、データの受け渡しが完了した。
 画面を凝視していた篤史も、電話の向こうにいる武蔵も、互いに大きく安堵の息をついた。篤史によれば、公安にも気付かれていないだろうということで、これに関してはひとまず無事に成功したようだ。
『どのくらいで突き止められる?』
「今は公安に目を着けられてて派手な動きが取れない。通常なら一日あれば余裕でこなせる作業だが、煩わしい隠蔽工作も必要になるだろうし、多めに見積もって一週間というところだ。目処がついたら連絡する」
『わかった、よろしく頼む』
 そう返事をした武蔵の声は、肩の荷が下りて幾分か穏やかなものになっていた。
 しかし、この打ち合わせスペースの空気は、未だにピンと張り詰めたままである。その原因は——。
「篤史、替わってくれ」
 悠人は感情を抑えた低い声でそう言うと、手のひらを上に向けて催促する。その瞳には、やり場のない激しい怒りが滾っていた。剛三の睨めつけるような牽制の視線も意に介さず、篤史が躊躇いがちに差し出した携帯電話を、じれったそうに奪い取って耳に当てる。
「会長秘書の楠です」
『どうも』
 武蔵は呑気に軽い挨拶を返した。悠人の眉間に深い皺が刻まれる。
「澪と替われ。話がしたい」
『……待っていろ』
 出し抜けにあからさまな敵意を向けられ、武蔵もさすがに少し気を悪くしたようだ。それでも拒みはしなかった。澪と短いやりとりを交わしたあと電話を替わる。
『師匠、お久しぶりです。澪です』
「澪、本当に大丈夫か? 言わされてるだけじゃないのか?」
『武蔵には良くしてもらってますし、心配はいりません』
 澪はいつもと変わらない明るい声で答えた。言わされているだけとはとても思えない。そんなに器用に嘘をついたり演技をしたりなど、彼女に限っては出来るはずがないのだ。生まれてから17年の間、ずっと一緒に過ごしてきた遥だからわかることである。そして、ずっと面倒を見てきた悠人にもわかっているはずだ。
「そうは言っても、顔を見ないことには安心できない……」
『私も、早く師匠やみんなに会いたいです』
 小さくはにかんだようなその声に、携帯電話を握る彼の手に力がこもる。
「早く会えるよう力を尽くす。待っていてくれ」
『うん……きゃっ!』
 その可愛らしい悲鳴は、身の危険を感じさせるようなものではなかった。しかし、悠人は一瞬で青ざめて表情を凍りつかせると、電話に食らいつかんばかりの勢いで呼びかける。
「澪?! どうした?! 何があった?!!」
『ここまでだ。じゃあな、会長秘書さん』
『ちょっと、あっ……』
 ツーッ、ツーッ、ツーッ——。
 澪のあたふたした声が遠くに聞こえたのを最後に、通話が切れた。だが、澪に危害が加えられたようには思えない。おそらく武蔵が電話を奪い取っただけなのだろう。悠人が先に挑発的な態度をとったのだから仕方ない。だが、彼は震える手で握った携帯電話を、恨みがましい目つきで睨みつけていた。
 
「剛三さん、どうするつもりですか」
 通話の切れた携帯電話を机に置きながら、悠人は低い声で尋ねた。その眉間には深い縦皺が刻まれ、瞳には鋭い光が宿り、必死に激情を堪える様子が見てとれる。だが、意図的なのかそうでないのか、剛三の返事はまるで彼の意に沿わないものだった。
「武蔵の言うとおりにすればよかろう」
「しかし、一刻も早く澪を……」
「武蔵が誘拐犯であることは間違いないが、人間的には意外とまともなようだ。あそこまで言うのだから約束は守るだろう。何より澪に手なずけられているようだからな。さすがはわが孫娘、なかなかやりおるわい」
 そう言い、ニッと口の端を吊り上げる。
 遥も、武蔵にはあまり悪い印象を抱かなかった。人を見る目のある剛三が言うのだから、まともというのはそうなのかもしれない。ただ、澪に手なずけられているかはわからない。結果的にそうなっているのだとしても、澪が意図したものではないだろう。
「悠人」
 首が折れそうなほど深くうなだれている彼に、剛三は冷ややかな視線を流して釘を刺す。
「おまえの気持ちもわからんではないが、勝手をするでないぞ」
「承知しています」
 悠人の答えは、いつもどおりの従順なものだった。けれど、大いに不満を感じていることは、誰の目にも明らかである。警察庁のときみたいに暴走しなければいいけど——苦悩する彼の横顔を見つめながら、遥は慎重に見守っていこうと心に決めた。

「どうして強引に切っちゃうかなぁ」
「あいつはどうもいけ好かない」
 口をとがらせ詰め寄る澪に、武蔵は忌々しげに顔をしかめて吐き捨てるように答えた。澪の手から奪い取った携帯電話を床に置き、立てた膝に寄りかかって溜息をつく。そんな彼を見つめながら、澪はふっと小さく息をついて表情を和らげた。
「でもありがとう、私のお願いを聞いてくれて……途中までだったのに……」
「やめたのはあくまで俺の意思だからな。おまえの覚悟は十分に伝わった」
「やっぱり武蔵っていい人だね」
 肩に掛けたバスタオルで濡れた髪を包みながら、くすっと微笑む。
 途中でやめてもらえるなんて、甘い期待はするなよ——そう言っていたにもかかわらず、結局、武蔵は途中でやめてしまったのだ。澪が拒絶したわけではない。武蔵の気が萎えたわけでもない。ギリギリのところで我にかえったという感じだ。いきなり澪を放置して何も言わず浴室に駆け込み、シャワーで身体中を冷やして戻ってくると、「どうかしてた」と力なく呟いて澪の拘束を解いたのである。
「……そんなに嫌だったのかよ」
「えっ?」
 武蔵が何を言っているのかわからなかった。しかし、すぐに例の条件についてだと思い至る。
「だって、それは……武蔵は彼氏じゃないし……」
 戸惑いながらも、上目遣いで眉をひそめて言い返す。別に武蔵のことが嫌だとかそういうわけではない。武蔵も、気持ちもないまま体を重ねるのは間違っていると、そう気付いたからやめたのではなかったのか——。
 彼の顔に仄かな陰が落ちた。
「心配するな。もう二度と無理強いはしない」
「うん……」
 澪はもやもやした気持ちのまま頷き、膝を抱えた。半袖Tシャツから伸びた腕には、もうどこにも拘束の鎖は見当たらない。だが、手錠を嵌められていた手首のあたりは、治りきっていない内出血と傷で、見るからに痛々しい状態になっていた。
 武蔵も、澪の視線を追ってそこに目を落とす。
「かなり痕になってるな」
「多分、そのうち消えるよ」
 淡々と答えながらも、内出血はともかく傷痕は残るのではないか、と一抹の不安が胸に湧き上がった。が、そうなったときのことなど考えたくもない。きっと元通りきれいに跡形もなく治るはず、と自分に言い聞かせながら、にっこりと精一杯の笑顔を作って見せる。しかし——。
「消える、か」
 じっと澪の手首を見つめたまま、武蔵は独り言のようにぽつりと落とした。気のせいかもしれないが、まるでそれを望んでいないかのように聞こえる。だが、そんなことはあるはずないとすぐに思い直し、深く考えることなく意識の外へ追いやった。