東京ラビリンス

ボーダーライン - 番外編 意識する

「ボーダーライン - きっかけ」の悠人視点の話です。

「えっ、それは本当ですか?」
 悠人は受話器を強く握り、目を大きく見張って尋ね返す。
 西の空が鮮やかな朱色に染まる頃、事務仕事をしていた悠人のところへ中等部の担任教諭から電話が入った。その教諭によると、澪が教室で同級生の男子を骨折させてしまい、今はその男子生徒とともに病院にいるという。おそらく喧嘩が原因ではないかということだが、二人とも口を閉ざし、何があったのか決して言おうとしないらしい。悠人はすぐさま仕事を切り上げると、保護者代理として急いで澪たちのいる病院へ向かった。

「申し訳ありませんでした。治療費はすべてこちらで持たせていただきます」
「いえ、あまりお気になさらないでください。子供どうしの喧嘩でしょうし……」
 悠人が病院に着くと、すでに男子生徒の母親が到着していたので、事情を聞くより先にとりあえず謝罪した。深々と頭を下げて誠意を示す。しかし、彼女も事情がわからず戸惑っているように見えた。
 男子生徒の右腕はギプスで固められ、肩から白い三角巾で吊るされている。
 澪自身が骨折させたことを最初から認めているので、その点は間違いないのだろう。ただ、喧嘩というのがどうしても腑に落ちない。武術を嗜んでいる彼女には、喧嘩では決して手を出してはならないと言いつけてあり、それを破ったという話はこれまで一度も聞いたことがなかった。
「二人とも、何があったのか話してくれないか?」
 間を開けて長椅子に座っている澪と男子生徒に、悠人は腰を屈めて尋ねた。しかし、二人とも押し黙ったまま口を開こうとしない。それぞれ別々の方向に視線を向けて、目を合わせないようにしていた。
「何を聞いてもこうなんですよ」
 担任の女性教諭が途方に暮れたように溜息をついて言う。
 悠人は体を起こすと、うつむく澪を見下ろして手を差し出した。
「澪、ちょっとおいで」
 彼女はびくりと体をこわばらせておずおずと顔を上げた。大きな漆黒の瞳が不安に揺らいでいる。暫しの逡巡の後、表情を硬くしたままこくりと頷くと、悠人の差し出した手を取って腰を上げた。そのときに触れた彼女の小さな手は、驚くほど冷たかった。

「澪、何があったのか教えてくれるか?」
 廊下の突き当たりまで彼女を連れて行き、小さめの古びた長椅子に座らせると、真正面から覗き込んで尋ねた。ここならば男子生徒のところから見えない。澪は戸惑ったように目を泳がせながらも、小さく頷き、鉛のように重かった口をようやく開く。
「あ、あのね……」
 訥々と語られたその内容は——悠人にとってあまりにも許し難いものだった。全身の血液が逆流するような憤怒を覚える。それでも我を忘れるわけにはいかない。きつくこぶしを握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じながら、必死で理性をつなぎ止める。
「わかった……つらかったね……」
「うん……」
 すべてを話し終えた彼女は涙目になっていた。悠人は右手のこぶしをほどき、彼女をそっと胸に抱き込んで頭を撫でる。小さく震える瞼を閉じた彼女の目尻から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「しばらくここで待っていて」
 澪にそう言い残すと、悠人は煌々と蛍光灯のともる待合室の方へ戻っていく。大きく深呼吸して、強くこぶしを握り、高ぶった感情を懸命に鎮めようとしながら——。

「話を聞いてきました」
 悠人がそう告げると、長椅子に座っていた男子生徒はビクリと肩を震わせた。まるで悠人から逃げるように大きく背中を丸めてうつむき、血の気の引いた顔をこわばらせている。その額には大粒の汗が滲んでいた。一方、彼の母親と担任教諭は、不安そうに息を詰めて言葉の続きを待っている。
「澪が言うには——放課後、一緒に日直の仕事をしているときに、彼に不意打ちでキスをされて、驚いて思わず突き飛ばしてしまった、ということらしいのですが」
 簡潔に説明するだけではらわたが煮えくりかえりそうだった。それでも表面上は努めて冷静を装う。どうにか落ち着いた声で最後まで言い終わると、凍てついた視線をゆっくりと男子生徒に流す。
「ちょっとあんた本当なの?!」
 母親は男子生徒の胸ぐらを引っ掴んで問い詰めた。彼はだらだらと大量の汗を流しながら、バツが悪そうに顔をそむける。明確な答えは口にしなかったが、それはほぼ認めたに等しい態度である。
「このバカッ! なんてことを!!」
 彼女は一気に青ざめ、息子を怒鳴りつけながらバシンと頭を叩いた。そして、その頭を乱暴に上から押さえつけると、自らも腰を折って深々と頭を下げる。
「本当に、本当に申し訳ありませんでしたっ!!」
 もう結構です、どうか頭を上げてください——悠人は大人の対応をしなければと思いつつも、黒い気持ちが渦巻いて声にすることができなかった。その場に立ち尽くしたまま張り裂けんばかりにこぶしを握りしめ、ギリギリと奥歯を噛みしめる。息の詰まるような膠着状態が続いていた、そのとき。
「あの……もういいです……」
 ふと澪の弱々しい声が聞こえた。振り向くと、彼女は少し離れたところに立ち、上目遣いでこちらの方を見ていた。待っているようにと言い置いたはずだが、ただならぬ声に驚いて様子を見に来たのだろう。その場に足を止めたまま、おずおずと遠慮がちに顔を上げて言葉を継ぐ。
「私も怪我させちゃったし、お互いさまってことで……ねっ?」
 まるで張り詰めた空気をほぐすように可愛らしく小首を傾げると、ぎこちないながらも微笑を浮かべた。

 悠人たちが帰るころには、すっかり夜の帷が降りていた。
 桜の季節は数週間前に終わっていたが、まだ夜分の冷え込みは厳しく、あたりの空気は凛とひきしまっている。濃紺色の空には数多の星が煌めいていた。しかしながら今の二人に夜空を楽しむ余裕はない。互いに無言のまま、駐車場に停めてある黒い小型車に乗り込んでいった。
 しかし、悠人はエンジンをかけようとしなかった。
 大きく溜息をつきながらハンドルに腕を置き、そこにもたれかかる。とても運転するような心境にはなれない。あの男子生徒が澪にしたことを考えると、頭が沸騰してどうにかなりそうだった。なのに、澪は一言も責めることなく許した——褒めてやるべき立派な行動のはずだが、それよりも苛つく気持ちの方が大きい。
「初めて、だったのか?」
「……うん」
 助手席の澪は、うつむいたまま消え入るように答える。その声には少し涙がまじっていた。初めてでなくても許せる話ではないが、初めてだと聞いたらなおさら腹立たしくなり、筋張ったこぶしが怒りで震えてくる。しかし、その怒りのやり場はどこにもない。
「師匠だったら良かったのに」
「……えっ?!」
 ぽつりと落とされた澪の言葉に、悠人は弾かれるように勢いよくハンドルから飛び起きた。心臓が体から飛び出しそうなほど大きく脈打っている。しかし、澪はそんな悠人の様子に気付くこともなく、膝で重ねた手を見つめたまま淡々と続ける。
「師匠だったら、突き飛ばしても骨折しないと思うし」
「ああ、そういう意味……」
 悠人は嘆息しながらそう答えると、力なく苦笑を浮かべた。
 いったい自分は何を期待していたのだろう。そんな不謹慎な勘違いをしてしまったのは、彼女に告白されたことがあるからかもしれない。しかし、それは恋もわかっていないような小さな子供のころの話である。だいたい彼女と自分とでは親子ほども年齢が離れているのだ。彼女はまだまだ子供で——ありえないとばかりに心の中で理由を並べ立てながら、ちらりと横目で澪を見る。本当はわかっていないわけではなかった。彼女だっていつまでも子供のままではない、ということを。
「なぁ、澪」
「うん……」
 悠人は意味もなくハンドルをきつく握り締め、その筋張った手に目を落とした。
「今日のことは事故みたいなものだ。だからノーカウントでいい。初めてでも何でもないからもう忘れろ」
「えっ?」
 澪はきょとんとして大きな瞳をぱちくりさせる。
「いいか? 約束だぞ?」
「うん……わかった……」
 悠人が強引に迫ると、澪はどうにか首肯してくれたものの、今ひとつ納得していないようである。それでも、こういう逃げ道を用意しておけば、精神的に少しは楽なのではないかと思う。彼女も、そして自分も——。
「ねえ、師匠」
 澪は悠人を覗き込み、それから少し遠慮がちに尋ねる。
「今日だけでいいから一緒に寝て?」
 つい先日まではたびたび悠人の部屋で一緒に寝ていたものの、中学に上がってからは一人で寝るようにと言いつけていた。それでも甘えんぼうな彼女はときどき一緒に寝たがったが、悠人がそれを許すことはなかった。けれど、さすがに今日は断るわけにはいかないだろう。
「今日だけだよ」
「ありがとう」
 澪は薄く微笑むと、ぎゅっと縋りつくように抱きついてきた。そんな彼女を優しく抱き留めながら、悠人はフロントガラス越しに夜空を仰いで小さく息をつく。その吐息の意味を、悠人自身、このときはまだはっきりと認識できずにいた。