東京ラビリンス

いつか恋になる - 第3話 こんなはずでは

「こんにちは!」
 カチャリと捜査一課の扉を開けて顔を覗かせたのは澪だった。おう、と自席にいた岩松警部補が手を上げて応じると、彼女は嬉しそうな笑顔を見せながら小走りで入ってくる。今日も学校帰りらしく、紺色ブレザーの制服を身につけ、肩にはスクールバッグを掛けている。
「澪ちゃん、いらっしゃい」
「今日も何かあるの?」
「マフィンを持ってきました」
 すぐに岩松警部補を含む刑事たちにわらわらと囲まれる。もっとも、ほとんどが外に出ているので四、五人くらいだ。彼女はにこやかに応じながら、スクールバッグから手作りと思しきマフィンの入った袋を取り出した。手作りといっても彼女ではなく執事が作ったものだろう。昔からお菓子作りが趣味でかなりの腕前だと聞いている。
 椅子に座ったままの誠一と目が合うと、彼女は花が咲くようにふわりと愛らしい笑顔を見せた。マフィンを袋ごと岩松警部補に手渡し、するりと人垣を抜けて誠一の前にやってくる。
「今日は会えましたね」
「二週間ぶりかな?」
「避けてませんでした?」
「まさか」
 誠一があわてて言い返すと、彼女はいたずらっぽく肩をすくめた。
 あの告白の日以来、彼女は週に二日ほど警視庁に通ってきては差し入れを置いていく。執事手作りのお菓子だったり、いただきものの銘菓だったり、市販のチョコレート菓子だったりとさまざまである。おそらく誠一に会うために理由をつけて来ているのだろうが、外に出ていることが多いため数えるほどしか会えていない。
「これ、南野さんだけ特別に」
「ありがとう」
 彼女がニコッと笑って差し出したチロルチョコを、礼を言って受け取る。
 今日だけでなくいつものことだが、彼女は捜査一課みんなへの差し入れとは別に、誠一にだけ小さなお菓子を用意している。そして、誠一がいないときはそのお菓子にメモをそえて机に残していくのだ。メモといっても、お仕事がんばってください、あまり無理しないでくださいね、など他人に読まれても差し支えのない程度のものである。
「相変わらず懐かれてるなぁ」
「南野だけうらやましいよ」
 同僚たちは軽い調子でからかうように言う。
 澪に好きだと告白されたことは自分ひとりの胸だけにおさめてある。誰にも言っていないし言うつもりもない。なので、本当にただ懐かれているだけとしか思われていないだろう。このとびきり可愛い財閥令嬢が、まさか誠一を男性として好きになるなど誰も思いもしないはずだ。まだ高校生ということを考えればなおさらである。誠一とはひとまわりも年が離れているのだから。
 覚悟してくださいね——彼女にそう言われたときはどうなることかと思ったが、こんな感じのちょっとしたコンタクトが続いているだけである。彼女にもそれなりの思慮分別はあるらしく、誠一が好きだとあからさまに周囲に悟られるような言動はとらない。せいぜいが小さなお菓子とメモくらいである。
 彼女の可愛らしいアプローチを微笑ましく思う一方で、困惑もしていた。十六歳になっても気持ちが変わらなかったら、と条件を出したのは、それまでに気持ちが変わるだろうと見越してのことである。あれほどささいなことで初対面の人を好きになれる彼女なら、高校生になって新しい出会いがあれば、また別の人を好きになるのではないかと思ったのだ。そうでなくても、充実した高校生活で誠一のことなど忘れてしまうのではないかと。なのに——めったに会えもしないのに一向にあきらめる気配はない。あれからもう三ヶ月が過ぎている。彼女の誕生日は九月の終わり頃だと聞いているので、十六歳になるまでは残り三ヶ月もない。
 そもそも十六歳というのが失敗だった。話の流れで深く考えずにそう言ってしまったが、当然ながら十六歳の子と付き合うのも大問題である。条件をつけるなら「高校を卒業しても」とするべきだったのだ。とはいえ、さすがにそれでは彼女が納得してくれなかっただろう。誠一でも三年は長いと思うのに、まだ年若い彼女にはあまりにも現実味のない話になる。
 どうせ断ることになるのなら、先延ばしせずに最初から断っておけばよかった。健気な姿を見せられると情が移ってよけいに断るのがつらくなる。こんなはずではなかったのに——。
「澪ちゃん、お茶いれようか?」
 背後から、マフィンの袋を持った同僚がふと思い立ったように声をかけた。
 彼女はすこし驚いたように振り返り、逡巡する。
「ん……いいです、もう帰りますね」
「そんなに遠慮しなくてもいいのに」
「いえ、宿題もありますから」
 明るく笑顔を見せながらそう答えると、誠一に向き直る。
「それじゃあね、南野さん」
「ああ、気をつけて」
 彼女は一礼し、みんなに手を振りながら出て行った。
 彼女が長居をせずに帰るのはいつものことだ。彼女なりに気を遣っているのだろう。大きな事件が起こって慌ただしかったときなどは、受付に差し入れを預けるだけで帰ったこともある。しかし——。
「財閥令嬢だかなんだか知らないですけど、いい気になりすぎじゃないですかね」
 あからさまな嫌悪をにじませた声。それが向かいに座る佐川のものだということは、すぐにわかった。ほかの同僚からちらりと聞いていたのだが、彼はこの状況をこころよく思っていないらしい。捜査一課の中ではいちばん年が若く、それゆえかいちばん頭が固く、どうにも融通の利かないところがあるのだ。
「そうかぁ? あのくらいかわいいもんだろう」
「邪魔にならないように気を遣ってますしね」
「高校生にしてはしっかりした子だよ」
 岩松警部補や同僚たちが口々に彼女のことを擁護するが、それがますます癪に障ったようだ。眉をしかめて苛ついたように語調を強める。
「そもそも来ること自体が邪魔なんですよ」
「別に俺は全然邪魔だなんて思ってないけどな」
「むしろ澪ちゃんが来てくれるとやる気が出るし」
「差し入れもありがたいですよ」
「なんだかんだ言って財閥令嬢だからでしょう」
 佐川が鋭い目つきで一刀両断すると、岩松警部補は軽く苦笑した。
「まあ、それもないとは言わんがな」
 実際、彼女が特に用もないのに来ることを許されているのは、橘財閥の令嬢だからだろう。捜査一課長からも機嫌を損ねないようにと念押しされている。
 しかし、それを抜きにしても捜査一課のほとんどが彼女の来訪を歓迎しているのだ。娘や妹のように可愛がるものもいれば、ファンを公言するもの、目の保養にしているもの、差し入れを楽しみにしているものなどさまざまである。もちろん特段歓迎していないものもいるが「まあいいんじゃないか」というスタンスで、露骨に反発しているのは佐川くらいである。
「そんなカリカリするなよ」
「お手洗い行ってきます」
 ダン、と机を叩きつけるようにして立ち上がり、佐川は肩をいからせつつ大股で部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、岩松警部補たちは肩をすくめたり苦笑したりしている。ただ、誠一だけは席に座ったまま終始無表情を保っていた。そして彼女からもらったチロルチョコに目を落とすと、そっと包みを開けて口に放り込んだ。

 それからしばらくは変わらない日々が続いていた。
 しかし、猛暑日が続くようになったあたりから、彼女がぱったりと姿を見せなくなった。最初のうちはどうしたんだろうと不思議に思うくらいだったが、二週間をすぎたあたりからさすがに気がかりになってきた。夏休みなので単に旅行に行っているだけかもしれない。あるいは進学校なので宿題や補習が大変なのかもしれない。しかし、誠一への興味がなくなったということも十分に考えられる。
 それならそれで構わない。もとよりそうなることを望んでいたのだから願ったり叶ったりだ。できればひとこと言ってほしかったという気持ちはあるが、好きじゃなくなった、などなかなか相手に告げられることではないだろう。これですべてが丸くおさまったのかもしれない——そう思う一方で、心にぽっかりと穴が空いたような物寂しさも感じていた。
 パソコンで書類を作成しながら無意識に溜息がこぼれる。屈託のない明るい笑顔、ぱっちりとした大きな目、すらりとしたきれいな手、凛として澄んだ声、ほのかに漂う甘い香りなど、彼女にまつわるさまざまなことが頭から離れない。
「澪ちゃん、どうしたんだろうな」
 まるで誠一の思考を見透かしたかのようなその言葉に、心臓がドクンと跳ねた。キーボードを打つ手を止めて隣に振り向くと、いつからなのかこちらに視線を流していた同僚と目が合った。
「南野、おまえもさみしいんじゃないか?」
「ええ、まあ……」
「おまえ懐かれてるわりにはそっけないよなぁ」
「そんなつもりはないですけど」
 そっけない、というのは今だけでなく普段のことも言っているのだろう。同僚たちが彼女についてあれこれ楽しそうに話していても、その輪には入らず遠巻きに聞いていた。彼女と話すときも親しげになりすぎないよう注意していた。彼女に告白されているなどと気付かれたくないからだ。
「夏休みだからバカンスじゃないですかね」
 目をそらしながら、ありうるひとつの推測を何気ない調子で返す。
「ああ、沖縄とか軽井沢とか?」
「海外の避暑地かもしれんぞ」
 斜め向かいに座っていた岩松警部補が、ニッと白い歯を見せて話に割り込んできた。すると、コーヒーを淹れて戻ってきた別の同僚も言葉を継ぐ。
「案外彼氏ができたのかもしれませんよ?」
「あー……」
 何人かが同時に溜息まじりの声を落とし、見るからに残念そうな顔になる。
「澪ちゃんくらい可愛ければ、男が放っておかないだろうな」
「高校生になって新しい出会いもあったでしょうしね」
 彼らの言葉を聞きながら、誠一は無表情をよそおって再びキーボードを叩き始めた。誠一に興味がなくなったというのを通り越して、彼氏ができたというのも十分にありうる話だ。むしろその方がしっくりくる。しかし、好きだと言ってくれた彼女が心変わりしたのだと思うと、すこし落胆もしていた。そんな資格がないことはわかっているのだが。
「まあ、そのうちひょっこりと姿を見せるんじゃないか?」
 岩松警部補は場を明るくするように軽く笑いながら言う。だが——。
「もう来ないと思いますよ」
 今まで沈黙していた佐川が、パソコンの画面に向かったままさらりと言った。
 その場にいた全員がいぶかしげに顔を曇らせて彼に振り向く。
「おまえ、何か知ってるのか?」
「あの子に言ったんですよ、邪魔だからもうここには来ないでくれって。そうしたら神妙な顔でこれで最後にしますって。やりたい放題のわがままお嬢様かと思いきや、意外と聞き分けは良かったですね」
 佐川は平然と答える。
 そういえば半月ほど前、佐川ひとりを残してみんな出払っていたときがあった。彼女が最後に来たのはそのときだ。信じたくはないが彼の言っていることには信憑性がある。岩松警部補は顔をしかめて頭をかき、ほかの同僚たちは苦々しく佐川を見たが、誠一だけは下を向いて奥歯を噛みしめた。
 ——ダン!!
 堪えきれず机を叩きつけるようにして立ち上がり、その手をぎゅっと握り込んだ。力を入れすぎて腕が震える。いつも温厚な誠一らしからぬその様子に、まわりは目を見開いて唖然とした。
「南野?」
「……お手洗いに行ってきます」
 首が折れそうなほどうつむいたままどうにかそう告げると、小さく一礼して部屋をあとにした。

 ガゴン——。
 誠一は自販機から缶コーヒーを取り出し、吐息を落とす。
 さよならのメモひとつ残さずに来なくなったということは、よほどショックを受けたのだろう。ひそかに泣いたかもしれない。あの屈託のない笑顔を曇らせてしまったかと思うと、胸がギリギリと締めつけられるように痛む。
 勝手なことを言った佐川にたいして腹立たしく思う気持ちもあるが、それより何より自分自身が許せなかった。最初からきっぱりと断ればこんなことにはならなかったのだ。彼女に納得してもらうために条件を出したつもりだったが、断りづらくて逃げていただけなのかもしれない。結局のところ自分のことしか考えていなかったのだろう。
 しかしながら今となってはどうすればいいのかわからない。彼女と連絡をとるすべさえないというのに。いや、高校の前で待ち伏せをすれば会えるかもしれないが、彼女の想いを受け入れられない以上、謝罪したところであらためて傷つけるだけのような気もする。それなら、いっそこのまま会わない方がいいのではないか。
 自販機の横の長椅子に腰を下ろすと、缶コーヒーのプルタブを静かに起こして口に運ぶ。気のせいか、いつものコーヒーがやけに苦く感じられて眉を寄せた。